思い出の向こう側

好きなものや思い出について書いたりしています

夢の話

夢の話をします。

 

最初は寝ている時に見る夢のことを書こうと思っていたけど、あまり楽しい気分になれなかったのでやめました。思い出せる夢って大体悪夢だし。死にそうな夢ばかりだし。

大学の講義で夢分析をやったから、今でも起きた時に夢を覚えていたら振り返って軽く分析したりもよくしている。そうすると大抵はその時の悩みだったりコンプレックスだったりが結晶化しているような感じになる。必要な分析ではあるし自分の心を覗いていくのは楽しいけど、それを書いちゃうことは別に楽しくない。

 

というわけで将来の方の夢の話。

 

 

私には夢がない。昔の自分が何を夢見ていたのかも定かではない。

目指したい何かがあるわけでもない。こうなりたいという憧れの人が誰かいるわけでもない。成長したいという気持ちも薄い。理想の未来を思い描けないし、思い描きたいともあまり思っていない。就活していると未来予想図を準備しないといけないので結構苦痛だったりする。将来なんて知ったことじゃないんだけどな。

 

ただただ今を楽しく生きていられれば、それがこの先も続いていけばそれでいいと思っている。もちろん今の”楽しい”が、将来の自分の”楽しい”である保証はない。だからその時その時の”楽しい”を大事にしていたい。

今楽しいことは老後になったら楽しめないかもよ?なら今楽しむしかないじゃん?それに、今の夢が将来の夢である保証もないじゃん?ーーそう考えていると、今夢を見る意味は薄くなっていく。将来のためにという意識がもともとあまりない人間だし。刹那的な生き方しかしてこなかったし。

刹那的に生きる貪欲法では人生の最適解は得られないよ、と友人から言われたこともあったけど、別に最適解を追い求めていないしなと思ったことを思い出す。これは今も変わらず思っていることでもある。多分刹那的な生き方はやめられない。

 

 

そういう人間だから夢を思い描かないでいる。

 

だけど、本当に夢を何も持っていないわけじゃない。具体的には書かないけど、いつか叶ったらいいなというくらいの夢はある。

 

でもそれは叶わなくても構わないんだ。

実現させたいと強く願うでもないし、行動に移すわけでもない。今の方向性とも合致していない。ただ淡く胸に抱えておく夢。それが私の夢のあり方。

 

夢はそれを夢見る時間の輝きや胸の高鳴りのためにある。だから叶わなくてもいい。夢を見ている、それだけで夢には価値があるんだから。私にはそれで十分だ。

 

実現させようとしたら、叶わない現実を思い知らされて傷つくだけだ。

 

 

こんな思考では夢は叶わない。それもわかっている。

夢を叶える人は皆、その夢に本気でぶつかってたくさん傷ついてそれでも前を向いて歯を食いしばって頑張り続けた人たちだ。その努力は必要条件で、頑張っても叶わない人たちもたくさんいる。その覚悟もない人間が夢を叶えようだなんて虫が良すぎる。それもわかっている。

 

わかった上で、今の私はそこからひとまず逃げている。そう、逃げだ。だけどそんな生き方でもいいじゃないか。わざわざ傷つかなくたっていいじゃないか。逃げて、呼吸がしやすい地平でのんびり暮らす。それも一つの幸せだ。

 

でも、それだけじゃつまらない。そうでしょう?夢はきっとあった方が人生の彩りが豊かになる。

だから淡く夢を抱えておくことにしたんだ。いつか叶ったらいいなと思い続けられるくらいの夢を。結局それを叶えようともせずに死んでいくかもしれない。それでもいい。夢を見ながら老いて死んでいく、それも幸せなことでしょう?

 

今の私にはこれで十分なんだ。持っているだけでいいんだから、叶わない夢でいいんだ。叶えようとしなくてもいいんだ。胸の片隅でちゃんと抱きしめておいてあげよう。時々引き出しから引っ張り出してあげればいい。

それで幸せなんだから。

 

 

もし頑張りたくなったら、夢をちゃんと形にしたいと思う日が来たら、チャンスが来たら、その時の自分を応援してあげたい。大丈夫、きっと頑張れるよ。もし叶わなかったとしても、うまくいかなくても、そんな自分もちゃんと抱きしめてあげるよ。だから大丈夫。一歩を踏み出したらきっと世界は変わるよ。

そして何より、夢を叶えたいと思えたことを祝福しよう。おめでとう。素敵な事だよ。

 

この文章が将来の自分の背中を押していたらいいな。

その日が来るまではこのブログを残しておこうと思います。