思い出の向こう側

好きなものや思い出について書いたりしています

ボクノート

子供の頃から、ずっと正解を追い求めていた。

中学受験から始まって大学受験に至るまで、受験勉強の世界にどっぷり浸かっていたのもあって、正解を選ぶことが全てだった。あの頃の勉強は100点を目指すもので、そこには明確な正解があった。正解でないならそれは不正解で、そのどちらかしか存在しない世界だった。部分点という概念はあっても、それは部分ごとに正解/不正解を判定していただけだ。

 

勉強についてはまだ得意だったから良かったが、苦手だった体育にしても、学校での生活にしても、明らかな正解がそこにはあって、その正解をできない自分は不正解でしかなくて、だからできないことに余計に落ち込んでいた。不正解が何より怖かった。怯えていた。

出来なくても出来ないなりに頑張る姿を認めてくれる人もいただろうけど、それを受け入れることはできずにいた。得意な勉強によって作り上げられた、正解を選ぶことを唯一の是とする価値観が、他の不得意な部分に対しての自分を縛っていった。

 

だからか、そういった子供の頃の不得意分野に対するコンプレックスは未だにある。私は絵も下手だし、楽器もできないし、音痴だし、運動も全然できない。不正解を突きつけられてしまうから、向き合うこともなかなか難しく、ずっと下手なままだ。大人になって少しずつ解放されてきたけれど、まだまだコンプレックスになっている。

 

そうやって積み上げられてきた正解を追い求める癖は、文章を書く時にも表れている。

好きなものについて書くとき、その言葉に自信がなくて、筆が止まってしまうことが多い。それはその解釈や言葉の選び方に正解が存在する気がしてしまうからだろう。

正解が1つであるならば、私が書く必要もない。私が書くにしても正解の言葉や解釈を選ぶ知識も技術もないから筆は止まる。それはあの頃の学校の空気を纏っていて、重苦しく、だから何も書けない時期があった。

 

芸術や文章、歌詞、言葉についても、ずっと解釈には正解があると思っていた。だからこんなにも悩んでいた。自分の解釈が正解である自信がなく、他の人の解釈を窺っていた。

これは国語という受験科目の影響だと思う。正解の選択肢を選ぶ必要があり、記述式だったとしても解釈は基本1通りしか許されていなくて、他は不正解になる。そういうものだと思っていたし、そこに異論を唱える余地などないのだと思っていた。諦めていたのかもしれない。

 

でも、本当はもっと解釈は自由なはずだ。自分がどう受け取ったかという感性こそが解釈なのだから、それを他人に合わせる必要はない。

自分というフィルターを通して芸術、言葉、物語は咀嚼され、解釈されるから、それは主観的なものがどうしても混ざるものになる。

評論や学術的な論文であれば、そういった主観を排除する努力がなされているものだと思うし、むしろそうでなくてはいけないけれど、私がここで書いていることは評論でも論文でもない。エッセイのようなブログにおいて、自分というフィルターを通して感じた、見えたものを否定する必要はないはずだ。

私が感じたことは私にとっての真実だから、他人にはこう見えるかもしれないが、それはそれとして私にはこう見えると開き直っていいんだと思う。正解/不正解に縛られない、「私が見たもの」という立ち位置がある。

 

ただ、もちろん事実に反することを書くべきではないし、常識のようなものと照らし合わせる必要はあるから、そのフィルターをちゃんと見つめ直す作業はしなきゃいけないと思う。世の中に溢れている炎上って多分そういうフィルターのズレによるものだと思っていて、簡単に開き直ることは危うい。社会的な目を自分の中に同居させながら、自分の目を尊重するのは意外と大変かもしれない。でもやらなきゃね。

 

そうやって解釈に正解を求めなくなったことで、好きなものについて語ることの不安とか自信のなさは軽減されたような気がしている。私が感じたことを、正解としてではなく、私が感じたこととして書いたらそれでいいんだ。最近書いた「海と川」なんてそうやって書いたものだから、「海はモラトリアム」なんて書いちゃっている。ああいうことは今までだったら書けなかったなぁなんて思う。

ただ、そうやって書いたことが、正解の解釈として受け取られてしまうのは少し怖い。自分の書いた文章に正解を求められてしまうと、正解を書かなければいけないような義務感に縛られてしまう。それは嫌なので、あくまで一人の戯言として受け取っておいてください。

 

正解を追い求めることから卒業します。もっと自由に。

 

 

そうやって自由になったものの、好きなものについて書くのはまだ難しさがある。自分の感じたことの言語化の部分、どこがどうだったから好きなのか、みたいなところ。

自分の感性や感覚と、自分が紡ぐ言葉との間にズレがないことが正解で、そこにはちゃんと正解があると信じている。だから何度も書き直したり、言葉を必死に探したりしている。その時間は少し苦しいけれど、楽しい。正解を追い求めることはやめようと決めたけど、ここについては妥協せずに自分なりの正解を唸りながら見つけていきます。

 

 

この記事を書き終えて、ふと想いを馳せた先にはこの曲があった。この曲に導かれていた気がするくらいピッタリだから、この曲をタイトルにしておきます。