思い出の向こう側

好きなものや思い出について書いたりしています

言えないこと

日記のようなものです。

 


 

くどうれいんさんの新著『日記の練習』が先日発売された。くどうさんのエッセイや日記の大ファンなので当然買う一手。そして、せっかくならサインが欲しいな、なんて思った。くどうさんは岩手の人で、岩手であればサイン会みたいなものや、サイン本が積まれている本屋があったりするんだけど、私が岩手を旅していた時はまだ発売前で、だから無理だった。

とはいえ、サイン本を手に入れるチャンスはなくはない。Twitterを眺めていると9/21に大阪でサイン会をやるとの情報があった。私はミスチルのライブで前日に大阪に行く予定だったので、これはチャンスと思っていたんだけど結局諦めちゃった。疲れてたし。

このとき書いていた翌日のイベントはこのサイン会だったのでした。

で、諦めたんだけど、くどうさんは大阪の本屋(梅田蔦屋と丸善高島屋大阪店)でサイン本をそのとき作ってくれていた。翌週も大阪に行く予定(BUMPのライブ)だったから、そのときに買えると嬉しいなって思っていた。でも、丸善の方は1日も持たずにサイン本完売とのTweetがあった。蔦屋は何も情報がなかったけれど、とはいえ丸善の様子を見るにまあ無理かもしれない。

もうサイン本は諦めて適当に買おうかな、と思っていたとき、くどうさんのやっているエフエム岩手のラジオ『丸顔たちは、きょうも空腹』で、サイン本を3名にプレゼント!というキャンペーンを耳にした。まあダメもとで応募するか、と思って、神戸へと向かう高速バスの中でメールを送った。こんなの大体当たんないんですけどね。

 

9/29。

BUMPのライブ前に大阪に行ってダメもとで蔦屋に寄ってみると、そこにはサイン本がまだあった。というわけでもう迷わずに購入。とっても嬉しかった。

 

そしてその数日後。ヤマトから荷物が届くとのメールが届いた。心当たりが全くなかったが、発送元を確認すると岩手県だった。

……そうです、当たっちゃったんです。こんなにも嬉しいのに、こんなにも申し訳ない気持ちになるなんて。せっかく送っていただいたのに、絶対他の人に送った方が喜ばれたんじゃないかと思う。でもそんなこと言えないですね。

 

というわけで、今私の手元には『日記の練習』のサイン本が2冊あります。大事に読もうと思います。

左がラジオプレゼントのサイン本、右が大阪で買ったサイン本

 

これはくどうさんのエッセイで好きなものの一つ。くどうさんにとってのねぎとろは、私にとっての何だろうか。

 


 

夏休みが終わった。2ヶ月くらい休みだったものの、実習やら集中講義やらでこまめに削られ、まとまった休みという実感はあまりないまま終わってしまった。本当はこの期間にもっと色々なことを勉強しようとか、研究を進めようとか思っていたのに、結局ほとんど何も進まないまま。

別にそれをそんなに悔いているわけではないんですけどね。もちろん怠惰に過ごしてしまった時間はたくさんあったけど、必要な休養だったとも思うし、別に何も考えずに過ごしていたわけでもなかったから。たくさん本を読んだ(専門書ではないから直接的な成長かと言われるとそうでもないが)し、旅行もできたし、色々な人と話をしたりして色々なことを吸収した期間だったと思う。あとは実習でもすごくたくさんのことを感じ、考え、学んだんじゃないかと思っている。

人生全体で見たらこの夏休みはちゃんと前に進んだ期間だったと思う。堂々と胸を張って言えるほどじゃないんですけどね。できていないこともたくさんあったから。でもまあ、良かったんじゃないですかね。

 

夏休みが終わる日。大学の廊下から見える夕焼けがとても綺麗だった。とても綺麗だったから、呼び寄せられるように廊下の先のガラス扉を開け、夕陽を直接眺めようと外に出た。そこには二人の先輩がいた。先輩たちもまた、夕陽が綺麗でそれで廊下からここへ来たのだと言っていた。直接見る夕陽は廊下で見たそれよりもなんだかちっぽけでがっかりしたのだけれど、でもまあそんなことはどうでもよくて、同じように夕陽を見てここへ呼び寄せられた人がいたということがなんだか嬉しかった。

夕陽が綺麗だったから、というとても素直な心持ちで日々を生きていられたらどんなに綺麗なことだろうかと思う。本当に、ただそうありたいと願う。金を稼ぐとか、誰かの役に立ちたいとか、勉強とか研究とか、そういうのは本当はどうでもよくて、ただそうやって綺麗なことだけで生きていられたらそれでいいのにな、と思っている自分がいる。本音、でもこれもまた言えないこと。そしてそれが全てではないことも知っているから、私は頑張って生きようとしている。

 


 

最近は歩くときに音楽を聴くことが減った。外にいるとき、音楽を聴いていれば世界のいろいろなものは遮断され、私は大丈夫でいられた。音楽は私を守ってくれているものだった。今、世界が少し大丈夫なものに思えているのかもしれない。本当に良かったと思う。

 

それでも時折、ふとしたはずみで世界がこわくなるときがある。今日はそういう日だった。

街で用事を済ませ、南珈琲店で本を読んでいた。読み進めていると、私の心の中にすっと冷たく染み込んでくるものがあった。これはもう、誰かがいるところでは読み進めることができないと思った。それで慌てて席を立った。そのまま映画を見に行こうと思った。『ナミビアの砂漠』の上映時間が迫っていた。そもそも今日はこの映画を観るつもりで街に出ていたのだ。でも、映画館に向かう途中で「今日は観れない」と思った。疲れていたとか、少し眠かったとか、いろいろな理由が思い浮かんだけれど、多分何かがこわかったんだと思う。今、この映画を観ることで、何かが壊れてしまうような、そんなこわさ。普段ならえいやと踏み込むのに、実際に壊れることは多分ないことも知っているのに、今日はそれができなかった。

 

それでそのまま電車に乗って帰ることにした。本の続きを読む。一人でなければ読めないと思っていたのに、一人でない場所で読んでしまったからか、冷たさが身体を侵す。

不規則に縦に横に揺れて走る車両。身体がそのリズムにうまく乗れない。私だけがこの世界のリズムに乗れない、そんな錯覚を覚える。世界から置いてかれてひとりぼっち。ふと、数十人の乗客それぞれに人生があって、物語があるということに、その情報量にこわくなる。押し潰されそうだ。カバンを胸に抱え、ぎゅっと抱きしめる。それ以外に今の私を支えられる術がないように思えたから。

誰もいない無人駅で降りた。駅の明かりが眩しい。誰もいないベンチで座りたかった。でも駅は誰もいなくても明るい。明るいところで座る気持ちには、どうしてもなれなかった。暗闇に一人座っていたかった。そんな場所はどこにもなかった。目の焦点がどこにも合わない。疲れているのか、それともこわいのか、よくわからなくなる。

なんとか頑張って歩いて帰宅した。でも、それでも音楽を聴こうという気持ちにはならなかった。むしろ静寂を聴いていたいと思っていた。暗闇の中では世界と仲良くなれるような、あるいは味方でいてくれるような気がしたのかもしれない。

 

布団に倒れ込む。やっぱり疲れているようだ。夕食を作らなきゃ、と思う。芋煮を作ろうと思って、材料だけは用意してあった。

里芋を剥く。剥いていると、力の掛け方がまずかったのか、あるいは経年劣化か、セラミックのピーラーが割れた。途方に暮れる。普段であればピーラーを買いに行ったのかもしれないが、ちょうど自転車のタイヤがパンクしていて使えず、そして歩いて買いに行く気力はなかった。仕方ないので包丁で剥こうとしたが、手が震えていてどうにも危なっかしい。もはや世界は私に味方してくれていないことを感じる。今日はこういう日なのかもしれない。

里芋は茹でてから手で剥くことで対処し、人参はもう皮を剥かずに使うことにして、ようやく芋煮を作ることができた。できた芋煮は美味しい。でも途中で食べるのをやめ、今この文章を書いている。私にとっての芋煮は、ねぎとろのようなお守りではなかったみたいだ。

こういうときにこそ、音楽を頼るべきなのかもしれないと思う。YouTubeのミックスリストを適当に流してみる。流れてきたきのこ帝国の『春と修羅』、あるいはHommヨの『ライカ』に心が落ち着く自分がいる。ようやく世界が少し自分に馴染んでくる。ホッとする。生きていけると思った。芋煮を食べよう。そして寝よう。