思い出の向こう側

好きなものや思い出について書いたりしています

まとまらないこと

今年に入ってからというもの、まとまりのない文章ばかりが増えている。去年まではどちらかというと何かひとつのテーマに対して文章を書いたものが多かったのだけれど、最近は何もテーマが思い浮かばない。ひとつこれというものについて語りたい意欲が薄れたというか、枯渇してしまったというか。とはいえ何かを書きたい欲求が薄まったわけではなく、むしろ増している。だから最近はずっと、よくわからない日記のようなものになっている。

 

まとまりを持たせた綺麗な文章を作るのは、どこか今の私を削ぎ落としてしまうところがある。良くも悪くも私そのままではなく、よそ行きの私がそこにはある。それが適切な場合もあるだろうし、今だってむしろその方がいいのかもしれないとは思うが、今の私はぐっちゃぐちゃのままの私を出してしまいたいと思っている。

ありのままの自分を曝け出したい、受け入れられたいという身勝手な欲求からくるもの?

ーー否定はできない。でも、そうだと言ってしまうのもまた違う。なんというか、もうどうしようもなくまとまらないんですよね。本当は綺麗にまとめたい気持ちもある。できることなら綺麗な文章を書きたいし、伝えたいことをちゃんと伝えたい。ぐっちゃぐちゃで書いている本人もよくわからないようなものなんて、って思ってしまうし。

なのに、まとまる気配がない。日々の中で色々なことに感情が動いて、それらをすごく大事にしたいし、それらがどこかで有機的に結びついているような感覚もあるのだけれど、その結びつきを言葉にすることができない。もどかしい。だからせめて、その断片だけでも言葉にして残そうとして、こうやって何かを書いている。

 

後期の授業が始まった。その中で、「わからなさを抱えながらわからなさに居続けること」「答えを無理に出さないこと」が私たちには必要なのだというような話があった。今の私は練習の中でどちらかというと素直にそれができていたのだと思うが、それはここでわからないまま書くことを繰り返してきたのが大きいのだと思う。まとまらなくていい、よくわからなくていい、何かぼんやりとしたつながりがありそうだという感覚だけでいいと開き直って書いてきたことが、どこか実践として繋がったような気がして、それはなんだか嬉しかった。きっと、そういう訓練というかインプットを通して、体と心が自然とそのような方向に向かっていっていたのだと思う。そういえば、思考というか言葉が私は拡散的だという指摘(指摘でもないけど)ももらったが、それもそういうことなのかもしれないですね。

そもそも人間は誰しもそんなにまとまりがないというか、綺麗に言い表せるようなものではないのかもしれないと思う。色々な顔があるし、どこか矛盾したような思考や感情だってある。全ての行動の理由を説明できるわけでもない。心の中にある糸は絡まってぐっちゃぐちゃで、何がどこに繋がっているのかもわからない。それをほどいていくことがこれからの仕事なのかなと思いつつ、ほどけないままの存在を受け入れることも多分仕事。だからまあ、こんな私でもいいのかもしれないと思う。

 

日々の色々なことがちゃんと今の私の中に息づいていて、それが結果としていい方向に進ませてくれているのであれば、うまくまとまらなくても今はいいのかもしれない。そう思うと未来は少し明るくなってくる。多分大丈夫。

 

本当は、まとまらないよ〜って話を枕にしてこのあとにつらつらと日記のようなものを書こうと思っていたんだけど、いつの間にか長くなってしまったのでどうしようかな。まあいいか、一旦これで終わりにして。