思い出の向こう側

好きなものや思い出について書いたりしています

7ぶんの2

読んだ本について。7冊買ったエッセイのうちの2冊の話です。別に読み終わってもいなかったりするのだけれど、書くなら今だと思うので書く。次がいつ出るかはよくわかりません。

 

村上春樹『村上ラヂオ2』

村上春樹のエッセイ集。買って1日で読み終えた。こんなことは今までにもあまりなかった。それだけ読みやすく、面白かったのだと思う。

村上春樹はほぼ読んだことがない。中学生の頃には『1Q84』が発売されていたけれど、その熱狂の渦に加わることは結局なかった。高校の時、国語の授業で何かを読まされたのは覚えているが、何を読まされたのかを思い出せない。強いて言えば、その文章は嫌いではなかったと思うが、物語はよくわからない感じで、読み続けたいとはあまり思わなかったのだと思う。

なのに今になってなぜ読もうと思ったのかといえば、それは3月に『辺境・近境』を読んでしまったことが大きいと思う。うどんについて書いている「讃岐・超ディープうどん紀行」が収録されており、それが読みたくなり、読んだ。で、そこに収録されている他の紀行文も含めて全部好きになった。「ノモンハンの鉄の墓場」が特に好き。旅をしている最中に読んでいたので、旅先での思考の文体が村上春樹チックになってしまっていたことを思い出す。いいんだか悪いんだかよく分からないけど。

それで他のエッセイも読んでみたいなとなって、今手を出したというわけです。

文章のリズム感がすごく好き。こういう文章を書いていたいと思うし、読んでいたい。書く方については、すでにどこかで影響を受けているような気がしている。

 

くどうれいん『うたうおばけ』

読んでいてあまりにも綺麗すぎて(人生、物語、言葉、何もかも)、打ちのめされてしまった。わからされてしまった。私は絶対にこの人に勝てない。敵わない。

それで、一旦本を閉じて読むのをやめてしまった。喫茶店のラストオーダーが来て追い出されてしまったからという、現実的な理由もあるのだけれど。

「謎の塚澤」からの「暗号のスズキくん」、そして「物理教師」や「一千万円分の不幸」。このあたりで打ちのめされたし、「冬の夜のタクシー」「ロマンスカーの思い出」とかでもう、なんかダメ。ああ、かなわない。こんな美しいこと、私の人生にあっただろうか。

なんていうんでしょうね。すごく好きで、でもそこになぜか嫉妬のようなものを抱いてしまうのは。それこそ村上春樹には抱かない感情。Coccoには抱いているような気がしている。人生とか、そこに濃く深く存在する感情とか情念とか、あるいは青春のようなものとかに、そしてそれを瑞々しく表現する言葉に、眩しさを覚えてしまうのかもしれない。

もしかしたら、それは憧れなのかもしれない。こういう分からない感情に遭遇するといつもドギマギするのだけれど、それはそういうことなのかもしれないですね。

 

(追記):

追記でいつも書いているようなことをそのまま本文として書けばいいのになと思いつつ、片隅で書いているこの感じが気楽で心地よいことに気づいてしまった。本文は一応まとまりを持たせたい、みたいな気持ちがどこかにあるのかもしれないですね。別になんだっていいんだけど。

 

 

香川は、というより今住んでいるあたりは、街灯が少なく街の明かりも少ないからか星が綺麗に見える。降ってくるような、という表現ができるほどの綺麗さではないけれど。そんな星空の中、自転車を漕いで家へと帰る。ふと、もっと体温を下げていたいなと思う。もっと深く、暗く、冷たいところで生きていたい。もっと、静かなところへ行きたい。孤独で寂しいところに。

でもそれは嘘であることを私は知っている。何かを諦めた時、私は自分に嘘をつく。諦めたのではなくて、違う選択肢を選び取ったのだと自分に言い聞かせるために。諦めたくないけれど諦めた何かは、何だったのだろうか。

私は、本当は何を求めているのだろうか。

 

人々がみな、とても眩しく見える時がある。誰かと比べて落ち込むような時がある。でもそういう時、彼らも私と同じように一人の人間であることを、私は忘れているのだと思う。輝いているように見える人たちにも影はあって、暗い部分がきっとある。誰もが何かしらを抱えて生きている。そういうことを忘れてしまわないようにしたい。

 

私は自分が何も持ち合わせていないことを、ずっと劣等感のように心に抱いている。本当はそんなこともないはずで、何かしらを持っているから今ここにいるのだと思うけれど、それを心の底から思うことができない。

何にしても、その劣等感を原動力にできたらいいと思うんですけどね。でもそこで頑張るよりは諦めてしまう方を選んでしまう癖があって、それで結局劣等感が残ったままになってしまう。癖を直すのは難しい。地道に向き合っていくしかないのかな。

 

今住んでいるアパートの隣人(あるいは他の階の住人かもしれない)が、毎日深夜3時ごろにバイクでどこかへ出かけていく。どういう暮らしをしているのだろうか、想像もつかない。隣人であっても、顔も名前も知らないし、暮らしも知らない。そういうものなのかもしれない。別に知りたいわけでもないけれど、そこに想いを馳せることはきっと意味のあることなんだと思う。

聞こえてくる時は眠れない夜で、だから聞こえない方が私は幸せで。でも、その音は夜の私をこの世界に繋ぎ止めてくれる音。どこかその音に安心して、それでようやく眠れる夜が何回かあった。隣人は彼の知らないところで私を救ってくれている。案外、世界はそうやって回っているのかもしれない。