思い出の向こう側

好きなものや思い出について書いたりしています

キヲク


Every Little Thingの「キヲク」。いつから好きになったんだっけ。なんにも覚えていないや。でも遠く昔から好き。

 


 

私は記憶力があまり良くない人間だ。

いわゆる知識のような文字情報に関しては、おそらく人並みか人並み以上には覚えていられるのだと思うし、多分得意な部類に入る。でも、思い出とか、あるいはその時の風景や感情や感覚など、文字にならない(あるいはしなかった)ものに関しては本当に弱く、簡単に忘れてしまう。

 

多くのことをもう思い出せなくなってしまった。色々な覚えておきたかったもの、忘れたくなかったもの、忘れられないと思っていたものを、もう私は手放してしまった。

実際にはすべてのことは頭の引き出しに残っていて、思い出せないのは鍵が開かないだけだ、ということもよく言われるけれど、どうもそれも怪しく思えてしまう。写真や動画など、形あるものとして目の前に提示されても、それでもなおわからないことが多いような気がしてしまう。

 

例えば、小学校の給食の風景をもう何一つとして思い出せない。メニュー、食器、その質感、温かさ、量、おかわりじゃんけん、給食当番、給食室からの運搬、配膳、牛乳瓶、匂い、向かい合わせの机、食後の掃除で教室の後ろに運ばれていく机、食べ終わらない給食。

嘘だった。案外思い出せてしまう。もちろん、細かいことになれば何一つ覚えていないと言えるし、その時の感情や会話、手触りのようなものはほとんど何も蘇ってはこない。それでも、何か少しのこと、例えば給食のおばさんからクラス全員分の給食が入ったワゴンを受け取る時(それすらも絵としては思い浮かばないが)の温かさやワクワク、緊張のようなものはなんとなく私の中にあって、それは今でも残り続けているものな気がする。あるいは給食着の少しぬめっとしたような質感。

あるいは、配膳で少なくよそわれてしまって泣いてしまった日のこと。その日は誕生日で、誕生日にこんな目に遭うなんてって思って泣いていた。あとから振り返れば配膳してくれた子は私の誕生日など知るはずもないし、そもそも私の誕生日をクラスの誰も知らなかったと思う。あまりにも幼く恥ずかしい思い出としか言いようがない。でも、そのことはその恥の記憶と共に今でも残っている。配膳してくれた女の子の名前も。

 

覚えていた。でも、覚えていたと言いたくない自分がいる。その記憶の不完全さを一番わかっているのは自分だからかもしれない。

 

覚えていないようで、覚えていて、でも全くくっきりとはしていない。記憶は裸眼の視界のようになっていて、掴むに掴めないような、そんな手応えのないところにある。思い出した感覚も、それが本当にそうであった確証はない。そこにあったかもしれない感覚を今の私が想像しているだけかもしれない。泡のように消えていく。それでも完全には消えていないから、こうやって今少しだけでも思い出せている。消えたようで消えていない、でもあるとも言えない。

すべてのことを忘れてしまっているような気がしてしまうのは、もしかしたらその手応えのなさからくるものなのだろうか。何か大事なことを忘れてしまっているような、必要な何かをどこかに置いてきてしまっているような、そんな感覚をずっと抱きながら生きている。自分の連続性があまり感じられなくて、欠落がどこかにあるような気がしてしまう。自分という物語を語る上で大事な要素が抜け落ちているような、そして今を生きていてもしっくりこないような、そんななんとも言えない感覚。

 

もしかしたら、思い出そうとしていないだけなのかもしれないと思う。私は過去を直視することができない。黒く塗りつぶしたくなるような、あるいは胸がぎゅっとなるような、そんな感覚に怯えている。眩しさに目を瞑ってしまうような過去だったらどれほど幸せだっただろうか、なんて思ってしまうのは少し僻み過ぎているだろうか。実際のところ特段不自由もなく幸せな人生を送ってきたのだと思うけれど、過去への憧憬はあまりないのもまた事実で、どういう目で過去を見つめればいいのかがわからなくなる。それですぐ目を逸らしてしまうのだ。

 

そして、そもそも覚えようとしてこなかった、というのもあるんだと思う。目の前に広がる世界を隅々まで身体で味わったことがあっただろうか。感覚を研ぎ澄ませてそこにあるものをわかろうとしたことがあっただろうか。首が横にふられる。

 

今だってそうで、目の前に広がる景色を忘れないでいられる自信がない。今、私は夕暮れの列車の中にいる。高校生たちのざわめき、差し込むオレンジ色の光、青空、停車中の妙な静けさ、エアコンの音、眠気。疲れている。よくわからない寂しさを乗せて列車は走り出す。ありふれたような景色で、特段覚えておきたいわけでもない。でも、そこにあった感覚はもう既にこぼれ落ちていった。本当は大切な何かがあったかもしれないが、もう忘れてしまった。こうしている間にもどんどんこぼれ落ちていく。

 

生きているということは、忘れていくことなのかもしれないと思う。時が流れていくこと、そして消えていくこと。その繰り返しの中に私は生きている。

 

こぼれ落ちていく。それを見つめる時、とても寂しく、悲しく、そして悔しい。

悔しいって言葉が私の中から出てくることに驚き、引っ込めてしまう。悔しいって言いたくて、言えなくて、言いたくなくて。悔しさは諦めと表裏で、世界をそういうものとして受け入れる気持ちと抗いたい気持ちとの間で揺れているのだと思う。

無理だとわかりながら抗い続けられるほど、私は強くない。でも、忘れてしまうことを盲目的に受け入れらるほどにも私は強くないから、いつだって中途半端に足掻き続けている。

 

だから私はせめてもの抵抗として、こうして思考を書き残しているのだと思う。思考はある程度形を保ったまま、こうして言葉で保存することができる。もちろんそれは正確ではなくて、こぼれ落ちたものがたくさんある。感情も、寂しいとか悲しいとか、そんな単純な言葉で表されるものではなかったはずだ。もっと、もっと適切に思考を保存できるようになりたいと思う。

が、それはそれとして、思考がそうやって保存されていく一方で、感覚的なものはやはり消えていくように思えてしまう。本当はそちらを残していたい。でもできない、保存することなどできないのだとすごく悲観的になってしまうけれど、給食の風景のように案外覚えているもので、だからもうあまり心配しなくてもいいのかもしれない。とはいえ寂しいんですけどね。いずれにせよすべては残せないのだから。

 

覚えていることが幸せとは限らないと思いつつ、そんなことを考えていた。ぐちゃぐちゃな文章だと思う。でもそれも含めて、今の私の保存。綺麗になんてなれないのが今の私。

 

f:id:GoodNightAngel:20240904190513j:imagef:id:GoodNightAngel:20240904190532j:image

同じ車窓。1枚目の方が綺麗、でも適切に保存されているのは2枚目かもしれない。そんなことを思う。

 

(追記):

4年前にも記憶について同じようなことを書いていた。失うことが怖いのは一緒。でもあの頃とはまた少し違う感覚があって、書くことも変わった。私も4年で変わったのだと思う。そして、あの頃からさらに記憶が失われていることにも気づいてしまう。怖いね。