思い出の向こう側

好きなものや思い出について書いたりしています

本の記録(11月)

また何冊か本を読んだので、感想を書いておきます。前に記事を書いてからの1ヶ月で4冊(1冊途中なので厳密には3冊半くらい)読んだのは、それなりに忙しかった中でまあまあよく読んだなという感じがある。貪るように読んでいた時期があり、でも最近少し息切れしてきたから、一回ここで書くことで吐き出しておこうと思う。

 

pha『どこでもいいからどこかへ行きたい』

phaさんは大学の同じ学部の先輩であり、卒業した年齢も就職した年齢も退職した年齢も私と同じなので、勝手に親近感を覚えている。とはいえphaさんの文章を読んだことはほとんどなかったんですけど。この本はタイトルがいい。私も似たようなことをずっと思っていたから。それでなんとなく読みたくなって読んでみたら、その脱力感とかが私の波長に合う感じがあって、そのまま読み進めちゃった。

突発的な旅ばかりになること、目的は日常との距離を取ることであることなど、どこか私の旅のスタンスと同じようなものがあり、わかるな〜と思いながら読んでいた。一方で私の旅とは全然違うところ(観光名所にはいかない、店はチェーン店でいいなど)もある。だからphaさんが語る旅と私の持つ旅は似通っていても違うものであり、私は私の旅を探さないといけないんだな、ということも感じる。phaさんの書く文章には押し付けがましいものがなく、「僕はこうです」というだけだから、ある意味では優しくないし、結局自分のことは自分で考えないといけないということを突き付けられているようでもある。

「できるだけ多くの場所に住みたい」という定住し続けることができない感覚、いつだってどこかへ行ってしまいたくなる感じは私も持っている。phaさんの生き方をなぞって生きることは到底できないと思うし、私には私の生き方があるのだけれど、同じような思いや悩みを抱えた先人の人生を参考にして「ああこういう生き方もあるんだな」「こういうのでもいいんだな」と思えたらいい。何かいい塩梅の「私らしさ」が生まれてくるだろうから。

 

pha『できないことは、がんばらない』

最近文庫化されたという知らせを受け、つい買って読んだ本。自分の苦手なこと、できないこと、ダメなこと、社会に適合できないことばかりが書かれている。巻頭に、

できることよりもできないことのほうが自分らしさを作っていると思う。

と書かれていた。でも、普通の人は(私もそうだが)できないことを表に出すことが難しい。恥ずかしいし、人からの評価は下がるし、できればできる自分でいたいから。そんな中、何も気負うことなく淡々と脱力した言葉でそれらを語り続けるphaさんはすごいなと思う。私にもたくさんのできないことがあって、それらはやっぱりどこか私らしさになっていると思う。そういうできない自分を愛していくことはこの何年かの課題というか、まあ頑張ろうとしているところでもあって。その手助けになりそうな本だなと思う。

この間書いた「常連になりたくない」は、この本を読んだから書いたようなものでした。

 

塩谷舞『小さな声の向こうに』

前作『ここじゃない世界に行きたかった』を読んで、ああ好きだなと思ったから買った2冊目。美しいものを探求することや日々についてのエッセイ。なんとなく、静かな文章だ、と思う。帯に『読むセラピー本』と書いてあるけれど、どちらかというと書くことによって著者自身がケアされていったような、そんな印象を受ける。この世界の中で、自分を見つめ、内なる声を大事にしていくこと。その声は小さくても良いのだということ。

印象に残っている言葉がある。

「喧騒の中で、話を聴いてもらうにはどうしたら良いと思う?」(中略)

「小さな声で話すこと。そうすれば周りの人は音量を下げ、耳を傾けて、あなたの声を聴いてくれますよ」

演出家の仲川利久さんの言葉として紹介されているこのフレーズ。力には力で対抗したくなるようなこの世の中で、それでも小さな声で話すのには勇気が必要だ。勇気、あるいは信念。それは強い声や力ではなく、確かな、真っ直ぐな目なのだと思う。そういうことをこの本から私は受け取った。他にも色々と受け取ったことはあったけれど、今の私は一旦このフレーズだけを胸に置いておこうかなと思う。

この本はいろいろな場所で読み進めていて、それは例えば瓦町にある喫茶店「半空」だったりした。1時間くらいゆっくり読んだあと、お会計のときにマスターと読んでいた本の話をしたのだけれど、なんとそのマスターは塩谷舞さんの大学の後輩で、「大学に入って初めてもらった名刺が塩谷舞さんだったんですよ」という。私も京都で大学生をしていたこともあり、京都の話や塩谷さんの話をすることができてなんだか嬉しかった。喫茶店としては価格帯が高めなのであまり行けないけれど、たまには行ってまた本を読み、マスターと話そうかな。

 

宮地尚子『傷を愛せるか 増補新版』

トラウマの専門家である著者が、傷について書くエッセイ。まだ読み始めたばかりなのだけれど、すごく引き込まれてしまう。

文章の感じがすごく好きで、だから読みたくなるし読んでしまうのだけれど、そういう人の本に限って途中で本を置いてしまう瞬間、読み続けられなくなってしまう瞬間が頻繁にやってくる。永井玲衣さんの『水中の哲学者たち』もそうだった。どちらも、重く暗い問い、生きることや死ぬこと、傷、痛みの話題が多かった。文章の波長が私に合うが故に、内容が重くてもすっと読み通していけてしまうのだけれど、受け取っている内容の重さが後からやってきて、それで読み進められなくなってしまうのだと思う。だからそんな簡単に読み切ることはできないし、多分すごく時間がかかると思う。そしてきっと今後も繰り返し読む中で、私の心を構成する一冊になるんだと思う。そういう本だと、読み始めてすぐに直感的に思った。

宮地尚子さんは精神科医で、私は心理の道という細かな違いはあるけれど、傷を抱えた人の話を聴くという点においては一緒で、先達としてその道を照らしてくれているような気がしている。これほどまでにキャリアを重ねてもなお、これだけ苦しさを抱えてしまうのだ、無力感を覚えるのだという点においても。

結局、大人になっても、医師になっても、自分が変えられることなどごくわずかでしかないことを、思い知らされつづける。子どものときとちがうのは、無力感に罪悪感が上乗せされるということだろうか。(「なにもできなくても」)

でもわたしはあのとき、確実に幸せだった。いってはいけないことのような気がして、これまでほとんどだれにもいわずにきたけれど。死にたかったわけではない。目の前にあったのは、わたしが向かっていったのは、死ではなかった。ただ揺れる水の影と輝く光、そして果てしなく広がる、大気と波音と希望に満ちた空間だった。(「水の中」)

そのクライエントから、「先生の言うことは、毎日蛇にかまれながら生きつづけなさいといっているのと同じことだ。なぜ死んではいけないのか。自分の望んでいるものは安楽死のようなものなのに」と訴えられたことがある。(中略)

死なないでほしいといってその場をやり過ごす自分、自殺を防ぎつづけることでいつか生きる喜びを取り戻してもらおうと思いつつ、それがあきらめて生きていってもらうことと紙一重であるのに気づいている自分に、わたしは嫌気がさす。(中略)

診療室の中で、クライエントから先ほどの言葉を投げられたとき、わたしはブラックホールに引き込まれるような感覚に襲われた。けれども、時間が来ればわたしは医師という衣を脱いで、自分の日常生活に戻っていかなければいけない。病院を出て車で向かうのは、子どもたちを預けている保育園だった。

門を開ければ、元気いっぱいの子どもたちがこちらに向かって駆けてくる。別世界。頭の切り替えがむずかしくて、子どもたちをもうしばらく保育園の庭で遊ばせながら、わたしは暮れかかった空を見上げ、深呼吸をくりかえす。クライエントの苦しみを置き去りにする罪悪感を押し流し、自分の内なる海を取り戻そうとするわたしに、ラモンとロサ、そしてジェネが、いまごろになって笑いかけてくれている。(「内なる海」)

今の私に響く言葉がたくさん並んでいて、その重さに飲み込まれそうになる。少しずつ消化できるといい。

 

こうやって本を読むたび、学業とは直接関係のない本ばかりを読んであまり勉強していないことに後ろめたさを覚えたりもする。今、目の前にある課題から目を逸らしているだけのようで。本当はもっと勉強しなきゃいけないし、読むにしても教科書とか参考書とか、直接的なものにした方がいいんじゃないか、ということも思ってしまう。でも、それは近視眼的な思考だ。専門職としての前にまず一人の人間として成熟する必要が私にはあって、そのためには専門的な細かいことよりももっと大事なことがあるはずだと思う。だから今、それを探して本を読んでいる。少し遠回りなようでも、それがきっと大局的には必要なことなんだと直感的に思うから。