思い出の向こう側

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推しの結婚

(元)推しが結婚した。

周りの人がどうこう言うほどショックを受けているわけではなく、普通におめでとうという気持ちがある。でも素直に喜べるほどでもないというか、少し醒めた気持ちでもいて、その気持ちがなんだかよくわからなくなって、だから書く言葉が思いつかなかった。

 

なんとなく、そういう人がいるんだろうなということはわかっていたような気がする。精神的にしんどかった時間が長かった彼女が、そうやって心を許せてくつろげる、大切にしてくれる人に出会えたのであれば、それはとても喜ばしいことだと本当に思う。

でも、祝福と同時にどこか寂しさも訪れるのは、まだ好きだったからなのかな。私が心理学を志したきっかけの一つは彼女の笑顔を守りたい気持ち(実際に守れる立場じゃないことは置いといてね)からで、でもその役割は今はもう完全に旦那さんが担ってくれている。言い方は難しいけれど、もうどこにも私の入り込む隙間はなく、まだ心のどこかでは救いたい対象として彼女がいたけれど、そう思うことももう叶わないというか。もう好きでいちゃいけない、みたいなものでもあるし、思いを馳せちゃうのも良くないな、なんて感じてしまう。

 

彼女がアイドルを卒業してからの数年間、私は精神的に辛い時期が続いていた。その時私は多分彼女を自我と同一化してしまっていて、だから対象喪失が自己の喪失に繋がってしまっていた。少しずつ、対象(彼女)との心の距離を離せるようになってきて、今はもうだいぶ切り離すことができていた。だから今、完全に切り離せ、というような事態になっても全然やってはいける。もう大丈夫。私は彼女に依存することなく未来を歩けるようになった。お別れをする痛みはそんなにない、でも寂しさはあるんだ。

 

ああ、もう本当に終わりなんだな、と終止符を打たれてしまったような感覚なのかもしれない。私にとってはアイドルとしての偶像でもあったし、救いたい対象としての偶像、先を歩く人としての偶像を担っていた彼女だったけれど、偶像はあくまでも偶像で、そこにもう投影してはいけないんだなってことが結婚発表で鮮明になったというか。10年くらい、ずっと私にとってアイドルだった彼女は、これでもうアイドルではなくなり、アイドルとして偶像として彼女を見ていた物語がここで終わったのだと思う。きっとその寂しさが少し素直になれない気持ちに繋がっていたのだろう。嬉しいことなんだよ、幸せそうで本当に良かったと思っているんだよ、ホッとしてるんだよ、でもちょっぴり寂しいんだよ。

 

 

どうかお幸せに。本当におめでとう。元気でいてね。