思い出の向こう側

好きなものや思い出について書いたりしています

言語化なんてできていない

言語化が上手、と言われることがある。

褒められることは嬉しいけれど、自分では全然上手だと思えないので、言われるたびに少し複雑な気持ちになる。ああ、この人は私の中にあるこの寂しさに気づいていないんだ、って。

 

客観的に見れば私はそれなりに得意な方というか、少なくとも慣れてはいるのだと思う。いろいろと考えて、なんとかしてそれを書こうとした時間は人よりもそれなりに多く、だからたくさん立ち止まったりもしてきた。そのたびにまた考える。そうやって私は生きてきた。だから私は周りの人よりも人生の歩みが遅いというか、遠回りばかりをしてきている。その遠回りの分、言葉にすることが少しくらいは上手くなってくれたのかもしれないし、むしろそうでなかったら報われないなとも思う。

 

でも、そうやって言葉を紡ぐ回数が増えていっても、いまだに私は言語化が下手なままだ。言語化が上手いというのは、私の中にあるものと言葉が一致しているということだと思うのだけれど、私は自分の中にある感覚や感情を上手く言い表すことができていない。ずっともがいている。ずっと水中で空気を探しているような、いつまでも水面に浮かび上がれないような気持ち。この表現も別にピタッとしたものではなく、どこかにずれがあるような気もするのだけれど。

なんとか言葉にしようとして、頑張って言葉を紡いでも、そこにはなにかしらこぼれ落ちてしまったものがある。言葉はデジタルな情報だ。どう頑張ったとしてもそこには欠落が存在し、すべてを失われないままに伝えることはできない。そんなことはわかっていても、それでも全てを伝えたいから私たちは言葉を必死に探し、できるだけ失われないまま届くことを願い、祈る。

 

私はこうやっていろいろなことを書いているけれど、こぼれ落ちていくものの多さに毎回のように絶望している。こんなことを言いたいわけじゃなかった、これじゃ何も伝わらない、違うとわかっているのにこんな言葉しか出てこない、違うのに、違うのに、違うのに……。それでも書く。なんとか書く。

そうやってできた、私にとって不完全でしかない言葉たち。上手く言い表せなかったことは自分が一番わかっている。唇を噛む。今日もまた、ダメだった。届かないことをまた気付かされてしまった。声にならない呻きと共に言葉は放たれていく。

 

それなのに、言語化が上手と言われてしまう。それを言った人は私の何を知っているんだろう。私の中には言葉と感覚の間にある深い溝があり、そこには絶望、水中のような息苦しさ、違うと知りながら口にする言葉の虚しさが渦巻いている。でも、「言語化が上手」という言葉はそれらをなかったことにしてしまう。なかったことにされた寂しさ、私の中を見ようともしてくれなかった寂しさを私は覚える。ああ、この人は私を知ろうともしていない。この苦しさに気づこうともしない。

 

素直に受け取れる方が楽だということもわかっている。別にそんなつもりもないだろう言葉、でも私は少しずつ孤独になっていく。