思い出の向こう側

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瞳に映る私

私は他人からどんな人間だと思われているのだろうか、と時折不安になることがある。

私はあなたの目にどう映っていますかーー、そんなことを訊きたくなる。訊く勇気は無い。

 

他人の目を気にしている、というのとは少し違う。いや、違うと思いたいだけで、本当はものすごく気にしているのかもしれないけれど。他人の目を「気にしている」という言葉の裏には良く見られたいというものがあるような気がしていて、でもそれは私にはあまりないというか、それで行動を変えるかというとそうでもないと思っている。ただ知りたい。他人の目に映る私はどういう存在なんだろう。

 

私は自分のことがわからない。主観的に見る私はひどく曖昧で、中立的で、凡庸に思えてしまう。多分これは私の持っている物差しが私を基準としたものしかないからで、だから自分というものが「普通」の存在になってしまう。私という輪郭を他人との比較でしか決められないのだけれど、それは相対的なものにしかならず、絶対的な自己像につながらないような気がしてしまう。

だから他人の物差しが欲しいというか、客観的に見た「私」がどんなものなのかを教えて欲しいと思ってしまう。本当はその物差しを自分の中に内在化できれば良いのだろうけれど、私にはそれができなかった。それをできるようにするためにもやはり他人からの「見え」が知りたい。

 

他人から見えている「私」を使って仕事をするということ、それが心理職だと今の私は理解している。実際の「私」がどうであるかではなく、見られている「私」。

一人の人間として真摯に向き合う仕事でもあると思う。だから別人格を演じるようなことをするわけでもないし、あくまでも「私」として仕事をするのだと思うが、それでも主観的な「私」と客観的な「私」の間には多少の齟齬がある。で、当然ながらクライエントに伝わるのは客観的な「私」の方だ。でも今の私はその客観的な「私」がわからない。これではきちんとした心理職になれないと思っている。私に足りないことだ。それがわかって初めて正しく他人の心に働きかけられるようになるのだと思う。

だからとても知りたいのだ。私はあなたの目にどう映っていますか?

その答えを今じゃなくてもいい、心理職になっているであろう何年か後にちゃんとわかるようになれたらいいな。

 

(追記):

主観的・客観的というとどうしても客観的な方が正しく、主観的な方が歪んでいるというイメージを持ってしまう。ただ、ここでの主観的・客観的はそのような判断を含まない、ただ誰から見たものか、という意味で使用している。