思い出の向こう側

好きなものや思い出について書いたりしています

雑記

いつも以上にとりとめがないです。夢のようなもの。

 

環境の変化に伴い、体がひどく疲れている。疲れているから免疫が落ちたのか、左目だけがずっとしょぼしょぼするし、とめどなく溢れる涙で左瞼が腫れた。眼科に行って薬をもらって少しは落ち着いたけれど、でもまだしょぼしょぼしている。もうこの状態が一週間続いていて、しんどくてうんざりする。アデノウイルスは一応陰性だったし、花粉症なのかなと思ったが、それにしては右目がなんともないのは不思議で、だから偽陰性の方が可能性が高そうだ。嫌なことだ。

 

最近のことを振り返っても、なんだか心がふわふわしていて、あまり覚えていないことが多い。あれ、今日何してたんだっけ、みたいなことも。疲れているな。色々とやらなきゃいけないことも多い。少しずつ着実にこなしていくしかない。

 

森見登美彦の「シャーロック・ホームズの凱旋」を読んだ。面白くて夢中になり、1日で読み終えてしまった。森見作品は昔から好きでよく読んでいたけれど、その空気もありつつ、ちゃんとミステリとしての面白さもあり、すごく好きな作品だった。「【新釈】走れメロス」のように名作の舞台を京都に作り替えていて、その結果ヴィクトリア朝京都なんてのが登場する。シャーロック・ホームズをただなぞるだけでもなく、森見エッセンスであるところの不毛さとかぐるぐるしてる感じとかが良かったですね。なんだか久しぶりに小説を一からちゃんと読めたような気がする。

 

音楽はちょっと新しい風を取り込みたくない気持ちが強いのか、お馴染みの曲ばかりをずっと聴いている。多分、環境が変わった分、音楽は変わらないものにしておきたいというか。じゃないと自我の同一性が保ちにくいと、もしかしたら新しいものを体が拒否しているのかも。

だから、もう少し前から聴き始めていた音楽について。

関ジャムで紹介されているのを観てから、TOMOOをよく聴いている。


「Super Ball」、確かにすごくいい。かっこいいっすね。 

 

綺麗な歌声がすごく生かされているなと思う曲。なんかいい。

 

あとはLaura day romanceを聴いていることが多く、最近は特にこれ。この気だるさが今の気分になんだか合う。

 

 

あとなんでしょうね。そうだ、この間北山修さんの講演会に行った話。

適当に入ったうどん屋に貼ってあったポスターでその講演会を知り、それで称讃寺に行って聴いてきた。人が多くてびっくりしたな。あとサインもらっちゃった。

 

色々聴いて、すごく勉強になった部分もあれば、まあ著書で読んで知ってたなっていうこともあったりって感じではあったけれど、すごく良かった。

その中で、最後の質疑応答での言葉が印象に残っている。

「音楽や小説などの文化を楽しめない人はどうすればいいか」という質問に対して、

「文化が発生する現場は、まずは二人の間で共有されて共に楽しめるというのが、やがてたまたま第三者にも受け入れられたら、これが文化として広がりを持っていく。文化を楽しめないというのはそれが第三者のために作られたものだから、そこに入り込めないってことで、まず誰かにわかってもらうしかない。カウンセラーはたった一人の人に出会って、たった一人の人のための言葉を紡ぎ出していく。二者言語が始まりで、そこがカウンセラーの仕事なんだ」っていうようなことを回答していた。

 

五島で免許合宿に行っていた時、そこで友達と話す中で私も同じようなことを考えていた。

歌とか小説とか映画とかドラマとか、そういう文化で救われる人たちはたくさんいる。泣ける、とか感動する、とかの体験によって。カウンセラーが救うよりもたくさんの人たちをそれら文化は救うわけで、じゃあカウンセラーの役割ってなんだろうっていうことをその友達と話していた。

そこで私が考えていたのは、そういった文化で救われないくらいに沈み込んだ人たちを、文化で救われるくらいの水準にまで和らげていくことがカウンセラーの役割なんじゃないかってことだった。カウンセラーはいつまでも一人の人のカウンセリングを続けるわけにはいかなくて、だから終わりをちゃんと設定するわけだけど、その終わりはそういう場所なんじゃないかって。自分である程度問題に対処できるようになるーーそれは文化を使うことも含めーーところが終着点だとするのであれば、それは北山修さんのいうところの、二者言語の段階を引き受けることと同じような気がしている。だからここを私はすごく大事にしていきたいなと思った。

 

あの素晴しい愛をもう一度、本当に好き。