思い出の向こう側

好きなものや思い出について書いたりしています

誰かのこと

人間がわからない。

他人がわからない。

それが最近の悩み。

 

自分のことにしか興味がないって前も書いたけれど、それは今でもあまり変わっていない。やっぱり興味の中心は自分。

 

でも、最近それが少し不安。他人のことを何一つわからない自分とは違って、どうやら周りの人たちは私の何倍もちゃんと他人のことを知っているらしい。

私は周りの人がどんな人で、どんなことを考えていて、どんな思いを抱えていて、どういう生活を送っていて、どうやって生きているのかを何も知らない。知ろうともしてこなかったし、どうやって知ったらいいのかも知らない。話をすればいいじゃんってことなのかもしれないけれど、そういったことを知るためにどんな話をしたらいいのかもわかっていない。直接的に聞けるほど、他人の心に入り込める勇気もない。

誰かのことを知ろうとする努力をしてこなかった人生だ。他人の心に土足で踏み込むようなことはしたくないって慎んだ結果、ドアをノックすることすらできない人間になってしまったのかもしれない。慎みではなく、ただただ臆病だった。心の距離を遠くに保ちすぎているのは、私の良くないところだと思う。

 

時折、目の前で見ている人がよくわからなくなることがある。知っていたつもりでいたのに、全然違う顔を見せてくる。私が思い描いていたその人の像が揺らぐ。信頼のようなものが揺らぐ時もあれば、逆に憎しみみたいなものが揺らぐ時もある。いい面も悪い面も持ち合わせているのが人間だって知ってるつもりでいたけれど、体の感覚としてはちゃんとわかっていなくて、その揺らぎに惑ってしまう。そして輪郭もぼやけてしまう。

その揺らぎは新鮮であるのと同時に、その振れ幅を知らないでいた自分が恥ずかしくもなる。人を立体的に捉えることができていない自分がそこにはいる。

自分にしか興味がないなんて、ただの幼い言い訳だったのかもしれない。

 

本当は他人のことを知りたい。どんな物語を歩いているのかを知りたい。見上げた空に何を見ているのかを知りたい。ちゃんと他人にも興味があって、知りたいと思っていることを認めるところから始めてみようか。きっと、その思いは私がこれから歩いていく道を指し示してくれるはずだ。

 

 

(追記):

心理学を学んでいたと言うと、「人の心が読めるんでしょ」なんて言われることがある。別にそんなことはないんだけどな。そういうのに一番近いのは臨床心理だろうけど、臨床心理では「他人の心はわかるはずがなく、決めつけない態度で臨む」ことになっていると私は理解しているので、そもそも読めないし読まないものだと思っている。

「読まない」という姿勢を、もしかしたら私は日常的に(無意識のうちに)やっているのかもしれない。だから他人のことはその人が発する言葉だけからしか受け取らないし、受け取れないんだろうなと思う。まあ態度や表情、仕草といった非言語的な情報を処理するのが苦手なだけかもしれないけれど。