思い出の向こう側

好きなものや思い出について書いたりしています

海と川

昔から川が好きだった。

川を眺めるのが好きで、河原を歩くのが好き。昔は川沿いを歩く旅をよくしていて、20キロくらい歩いていたりもした。旅先の見知らぬ土地で1人、誰もいない河原で寝転ぶのが好きだった。

この季節は寒いからやれないけれど、春から秋には今でもたまに鴨川や宇治川でやることがある。川が好きなのには変わりがない。

だけどいつからだろうか、川を目的に旅をすることがなくなってしまった。川が目的の旅は4年前、このブログを始める少し前に行った銚子川と熊野川が最後。

今は旅先に川があったとき、昔からの名残で見に行ったりはするけれど、そんなに心を動かされることがない。

 

その代わりにというか、今まではそこまで惹かれていなかった海にとても惹かれるようになっていった。このブログで書いているような旅行でも、海に行っていることがとても多い。

泳ぎたいとかそういう気持ちは全くなく、ただ見ていたいだけ。それは川の時も同じだったから、見る対象としての興味が川から海に切り替わった感じだ。

 

なぜ、私は川に心を惹かれていたのだろう。

なぜ、私は海に心を惹かれているのだろう。

 

興味は私の心を映す鏡のようなもので、過去の私は川を求めていて、今の私はきっと海を求めている。

 

川。

真っ直ぐに、あるいは蛇行しながら、時には分かれたり合流したりしながら、最後には一本の大きな流れとして海へと注いでいく。

まるで人生のよう。真っ直ぐではないにせよ、一つの大きな筋は基本変わらずに失わずに流れていくその様に私は憧れていたのかもしれない。流れの向きは一方向で、ただ前へと進んでいく。人生を歩くことそれ自体への自信のなさだったり、前へ進めていないことへの焦りや不安がそうさせていたのだろうか。別に今でもそれは変わらないんだけど、ある種の開き直りは持てるようになった。

 

海。

広大さ。寄せては返す波。まだ見る目が浅いのでこれくらいのイメージしかない。

あとは、私が惹かれるのは瀬戸内海のように圧倒的に穏やかな海で、日本海の激しい波飛沫にはそんなに惹かれないから、穏やかさも一つイメージに入る。

そこに私は何を見出しているのだろうか。

 

多分私は色々なものを海に求めているのだと思う。

広大さは可能性だ。川のように一つの道ではなく、幾つもの道がきっとある。いや、道というイメージは当てはまらないかもしれない。ただ沢山の可能性がそこにはある。

寄せては返す波は、人生を一方通行ではなく行ったり来たりするものとして捉えたい心の表れだろうか。戻れないものではなく、引き返してもいいものとして。あるいはたゆたうことを求めているのだろうか。目的地を定めるのではなく、何にも縛られずどこへでも行けるように。

穏やかさは、母性のようなものだろうか。ただ抱き抱えられることを私は求めていて、その象徴的なものとしても海を見つめているような気がしている。

 

今私は人生の岐路にある。このままこの仕事を続けるか、辞めて違う仕事をするか、大学院に進んで心理の道に覚悟を持って進むか。心理の道に心は傾いているし決心もしているけれど、迷いがないわけではない。揺れ動く心を、今の私は海に投影している。

その広大さに少しの不安を覚えながら、波に身を任せて行ったり来たりしながら、人生を委ねている。青く澄んだ海がどこかに導いてくれるような気がしているんだろう。川のようにゴールが決まっているわけではないワクワクさに心が躍っている。

 

きっと私が今求めているのはその未知数さ、可能性なんだ。

 

(追記):

ここで書いていたことを言い換えると、川を求めていた昔はモラトリアムからの脱却をしたくて、海を求めている今はモラトリアムへの回帰をしたいということなのかもしれない。私にとって海はモラトリアムだった。