思い出の向こう側

好きなものや思い出について書いたりしています

好きを叫ぶこと

最近聴いている音楽について書きます。


Homecomingsの新曲「Moon Shaped」、素晴らしいっすね。何がいいとか語れるほどのものを持ち合わせていないのだけれど、すごくいい。畳野さんの歌声が、ピースが綺麗にハマった感じですごく生かされているというか、ああここだったんだなというか。今までの曲どうこうではなく、「ここ」をすごく感じる。

 

最近は木村カエラとかYUKIとかも聴くようになった。流行っていたのは小学生の頃だったと思うけど、ちゃんと聴いたことはあまりなくて。今更感はあるけど、なんかいいですね。ちゃんと流行るだけのものがあるというか。

木村カエラは結局「リルラ・リルハ」に勝てる曲ないなぁと思いつつ、他も結構いい。そういえば昔は「タイムマシンにおねがい」のイメージが強かったなと思い出す。今のお気に入りは「Snowdome」とか「あの頃」あたり。でもまだ聴き始めなので、そのうちちゃんと好きな曲ができてきた頃にもう一回書くと思います。


 

YUKIは最新アルバムであるところの「パレードが続くなら」を聴いたりしている。「鳴り響く限り」「My Vision」あたりが特に好き。それにしてもこの歌声がジュディマリの頃から全然衰えないのすごいな。今年で52歳って本当ですか。

 

 


ん・フェニ「こっちの生活」。これはApple Musicのステーションで流れてきた。最近はステーションでとりあえず流して新しい出会いを探していたりするのだけれど、これはそれでドンピシャで刺さった曲。サビが特に好き。

 


Easycome「つつじ」。これもまたステーションで。好みを把握されすぎじゃない?

なんかいい。のんびりカフェとかで聴いていたい。

 

 

好きなものを好きだと叫ぶことは、その喜びを享受しているものとしてのある種の責務だと思う。その叫びがないばかりに終わりを迎えてしまうことだってあって、それで失ってしまうことになる。失ってから、好きだった終わってほしくなかったなんて言うのは、あまりにも無責任だし傲慢で、私はできるだけそうなりたくないと思っている。そうはいっても、大抵のものは失って初めてその大きさに気づくのだけれど。

どうしようもないこともこの世にはあって、精一杯頑張ったとしても終わってしまうことなんていくらでもあって、叫ぶことに無力感を覚える時のほうが多いけれど、でも叫ばなかったら何にもならない。だから私は叫んでいたい。好きなんだよということをちゃんと表現すること(言葉でもいいし、それが物であれば買うというような、音楽であれば再生数とかの数字で表現される形でもいいんだと思う)がきっとどこかで届いて、失わずに済むかもしれないから。

 

別に私がここで叫ぶことに力があるとは思っていない。ある意味ただの自己満足で、言い訳を用意しているだけかもしれない。だけど、どこかに届いてくれないかなという淡い期待を抱いていて、それは私がどうこうではなく、私の知らないところで何かが少し動く、そのきっかけの一つになったらいいなというくらいのこと。そうやって世界は回っている。それが幸せな螺旋を描いてくれたらいいなと願って、私は今日もこうして好きなものを好きだと書いている。

 


 

それとは別の軸として、私は私のためにだけ書いていたい、という気持ちがある。書いていることの最大の喜びは自分自身のカタルシスにあると思っていて、そこには読者という他人の存在は消し去られている。二者言語ですらない、一者言語ですよ。私が書いていて/読んでいて心地よいか、その基準だけが存在している。それでいいと思っている。

でもそれは、伝わらなくていい、届かなくていいと思っているということでもある。それは先に書いた、好きなことを好きと叫ぶ、その意味と相反することだ。

そして、誰にも届かなくていいと思っているかというとそんなこともなくて、誰かに読んでほしい、受け取ってほしい、伝わってほしい、わかってほしい、放り投げずに心に留めていてほしい、私の言葉を通して心で繋がりたい、そんな欲がある。とてもわがままで、幼稚で、寂しがりで、自己中心的な欲動。本当は届けたいんだと思う。だってこんな日記みたいな文章、日記として誰の目にも触れない場所に書くことだってできたのに、私は初めからここを選んでいる。最初からずっと、私は誰かに届けたかった。

でも、誰かに届けるために自分の心地よさという基準を曲げたくはない。私という、私の一番の愛読者を無視することなんてしたくない。その葛藤をずっと抱えている。

 

内在化された私と、他者である読者との間で感覚が一致するのであればこんなことは考えなくてもいいのだけれど、当然そんなことはなくて、そこには深い溝がきっとあるんだと思う。

その溝をどうするかを考えるのだけれど、なんて言うんでしょう、埋める努力をしたいわけではないというか。埋めることである種の没個性化を進めるのは、緩やかな自死に近いと思ってしまう。だって私が私である意味をなくしてしまうから。バランスを取って、あるいは間を取っていくというのも、なんか中途半端で結局何にもならないような気もしている。どうしたらいいんでしょうね。

ぼんやりと思い浮かんだ答えは「橋を架ける」だった。溝は溝として、違うものは違うものとして個性でちゃんと残しつつ、渡って行き来できるというあり方が一番いいのかもしれない。そんなことを思う夜。

 

私はもっと単純になってもいいのかもしれない、とふと思う。好きだから叫びたくなるし、好きだから伝えたくなる。自分のための言葉は私だけに伝わればいい。その二つは別のもの。どっちも好きにやったらいいんだよ。勝手にやればいい。どっちも書けるようになっておけばいいだけで、それ以上にそんなことに悩む必要はないんだ。ほら、虹が架かった。

 

(追記):

あまり主題と関係がないかもしれないけれど。

書いたのを再読した時、私は一者言語か三者言語しか話せていないのかもしれないな、ということをふと思った。自分への言葉か、あるいは目の前にいない誰かへの言葉(叫んで漂わせているだけの言葉)か。二者言語、目の前にいる人に直接伝えるということをしてきていなくて、だから愛を直接伝えるような言葉が私の中にあまりないのかもしれない。直接伝えることほど力のあることはないだろうに、その発想がないんだから呆れてしまう。照れとか恥ずかしさとか緊張とか、多分色々なものが抵抗としてあるんだと思うけれど、これから進む道は二者言語の世界なのだから、もっとちゃんと伝えられるようにしていかないといけないな、と思う。目の前の人と向き合う訓練、もっとしなきゃな。