思い出の向こう側

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僕らは結局ハローグッバイ

タイトルはこの曲(ノンブラリ「ながい日記」)を聴いていて思いついたフレーズ。Apple Musicのステーションで流れてきて、そこから好きになった。

 

僕らはずっと、ハローとグッバイを繰り返して生きている。それは喜びと悲しみと、美しさに溢れている。痛みに少しずつ慣れながら、その喜びの裏にいつかやってくる悲しみに怯えながら、それでも僕らは歩き続ける。怖くもある。いつかグッバイを言わなければならないのなら、ハローなんて言いたくないなんて思うこともある。それでも僕らはまた出会い、ハローを交わす。

ハローだけでも、グッバイだけでもなく、ハローグッバイなのが僕らの人生。グッバイがあるからハローが美しくなるし、ハローがあるからグッバイは美しい。人生はなんと寂しいことだろう、でもその寂しさが美しいんだ。

いつかは来るであろうお別れをずっと意識しておくことなんてできない。そんなことをしていたら心がもたないから、知らないふりをして生きている。でも、僕らがなんと思おうと結局のところ別れはやってくる。それは変わりがないこと。そして僕らが実はずっと昔から知っていること。

だからこそ、そのハローグッバイをしっかり噛み締めて味わうことって、すごく美しいことなんだと思う。だってそれが人生なのだから。

誰かと人生のある瞬間だけ交わり、そして離れていく。でも確かにそこにそのハローグッバイは残り香を置いていって、その残り香の重なりが豊かななんとも言えない深みを作り上げる。もう忘れてしまったようなハローグッバイも、その全てが今の僕になっていて、きっとどこかの誰かの中にも僕とのハローグッバイが根付いている。

ああ、忘れてしまうって寂しいね。でも忘れてないんだよ。だって微かにでもちゃんと香っているから。僕が僕である限り、僕が僕の人生を歩んでいる限り、忘れていないんだよ。ちゃんと生きているんだよ。