思い出の向こう側

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近づきたくて、遠ざかりたくて

私の通っていた中高では、特別授業という、教員や生徒の興味に応じて開設される授業があった。いつ頃やっていたか、あるいは何回分の授業だったかなどはもう思い出せないが、毎年何かしらの授業がいくつも用意され、生徒はその中から興味のあるものを選んで参加していた。

毎年あったはずだから私も6年分参加したはずだけれど、そのほとんどを思い出せない。当時は日記をつける習慣もなく、SNSもなく、だから記録にも何も残っていない。それでも、ただひとつ、ある授業のことを覚えている。

 

それが心理学の授業だった。何年生の頃だったかも覚えていないのだけれど、中3とか高1とか、まあその辺りだったのだろう。

担当していたのは長年のカープファンの先生で、カープが優勝したら生徒全員の成績を10にすると冗談でいつも言っていた先生だった。あの頃はまだカープは弱く、優勝することなどあり得なかったけれど、その後3連覇を果たしたときにはあの先生は10をつけたのだろうか。卒業してもう10年が経ち、その先生の名前も担当教科も忘れてしまった。なんとなくの顔と声と、確か英語の先生だったような、というくらいの記憶だけは残っている。

その先生は別に心理学の出身というわけでもなかった(はず)ので、どうしてその授業が行われたのかも今となってはわからない。その先生が心理学に興味があって個人的に学んでいた、とかそれくらいだろうか。いや、本当にわからないですね。

どうしてその授業を私が選んだのかも、正直なところ覚えていない。環境的な要因から心理学に興味があったというのもあると思うけれど、実際のところメンタリスト的なものに憧れていたとか、そういうところだったんじゃないかと思う。まあ中学生ですからね。

授業内容がどんなものだったかもあまり覚えていない。生徒はせいぜい5、6人だったような、それくらいの記憶。でも、中高生に座学で心理学を教えたってそんなに面白いものでもないから、おそらく体験的に何かを学ぶ感じの授業だったんだと思う。好意的に想像するならばフェルトセンスとかフォーカシングとかそういう感じの、内面を見つめる感じのものだったんじゃないかな。あるいは、少し穿った見方で想像するなら、当時流行りのメンタリズムのようなものだったのかもしれない。

いずれにせよ、そういった心理的な感覚を研ぎ澄ませるようなことをその授業で教わっていたのだと思う。

 

当時の私は繊細で、思春期特有の鋭く脆い感受性を持ち合わせていた。その感受性がその授業を通してより強くなっていった。そして、そのような感受性で暮らす中で何かが溢れ、私は一人で泣いた。何かが怖かった。人の心が感じ取れてしまうことがなのか、あるいは人の心自体がなのかはもう思い出せないけれど、いずれにせよその強い感受性で感じ取ったものは当時の私には重く、鋭く、怖いものだった。押し寄せてくる波のように。

今の私にはそのような感受性はない。あるいはその当時にもなく、ただの幻想で、人の心が読めるという幼い思い上がりだったのかもしれないけれど、でも確かにあの頃の私は今よりずっと強い感受性を持っていたのだと思う。ただ、それを表現する術を持ち合わせてはいなかった。そしてそれを持ち続けて耐えられるような強さも。だから泣くことくらいしかできなかったのだと思う。

 

何回か授業が終わって、私が変わってしまって、そして世界がしんどくなってしまったことをその先生に伝えた(堪えきれなくなって吐き出したと言うべきかもしれない)とき、その先生がすごく申し訳なさそうな顔をしたことを覚えている。それからその授業がどうなったのか、あまり覚えていない。中止になったか、行かなくて良くなったか、あるいは授業内容がマイルドなものになったか。いずれにせよその鋭さを増幅するようなことはなかった。

 

そのような体験が私の根底にはあって、それからというもの、私は人の心を読む、あるいは感じ取るということを避けるようになった。自分を守るために。

中学生だったか高校生だったかもわからないような、そんなあやふやな記憶で、もうその時の感覚も確かなものではないけれど、強烈な体験だったことだけは今でも覚えている。

 

それで私は他人との距離を遠くに設定するようにしたのかもしれない。近づいたら感じ取ってしまうから。そしてそれはとても怖いことだったから。

私は今でも心を感じ取ることが苦手だし、感じ取ることを避けてしまう。感じ取ろうとする理性的な努力は、無意識な心のバリアによって打ち消される。それはもう、防衛機制のようなものであって、そんなに簡単に取り除かれるものではないのかもしれない。でもこの道を歩む以上は避けては通れないことであって、少しずつ克服していかないといけないのだと思う。難しいな。

 

そして、心理の道を歩むことへのアンビバレンスな感情は、もしかしたらあの頃からのものかもしれないなとも思う。人の心を読むことに憧れ、そしてそれがとてつもなく怖いことを知った、あの体験。今だってそう。人の心を知りたくて、でも知りたくなくて。

 

近づきたくて、でも遠ざかりたくて。