思い出の向こう側

好きなものや思い出について書いたりしています

謝々

このブログを書き始めたのは3年前。

私は誰にも知らせることもなく、誰かが読んでくれることなど全く想定もせずに書き始めた。

誰かに読んでほしい、受け取ってほしいとかではなく、ただただ自分の中にあるものを吐き出す場として書いていた。自分のためだけに書いていた。

 

読んでくれる人が増えた今でも、自分のために書いているというのは変わらない。一番はやっぱり、他の誰でもない私自身に読んでほしくて書いている。今の私、過去の私、未来の私がそれぞれ読んでくれたらいいなって思いながら書いていることがよくある。

 

だけどそれとは別に、読んでくれる人が増えたことはとても嬉しい。私自身に届けと思って書いていることではあるけれど、他の誰かにも届いて受け取ってもらえていることは本当に有難いことだ。

 

 

読んでいただいて、何かを少しだけかもしれないけれど受け取っていただいて、本当にありがとうございます。

アイドルとかが、ブログへのコメントがとても嬉しくて全部読んでるって言ってるのを見て、ほんまかいなと思っていた時期があった。たくさんすぎて読めないでしょって。

でも今ならわかる。多かったとしても全部読みたいだろうなと思う。嬉しいもんね。

 

その喜びの源は承認欲求的なものなのかもしれないと思ったけれど、それだけじゃない気がする。声が届くことや繋がっていることの安心感というか。1人じゃないって思えることはすごく力になる気がする。

 

これからも多分、自分に向けて書くことはやめないと思う。誰かのために書くわけではないし、誰かに伝えたくて書くわけでもない文章ではあるけれど、それが結果的に誰かに届いてくれるならそれはとても素敵なことだなと思う。

自分のため「だけ」にではなく、読んでくれる誰かの存在を感じながら書くことは幸せなことなのかもしれない。

 

読んでくれる人がいるからこそ書けることがある。本当にありがとうございます。

 

ふと道を歩いていた時に感謝の気持ちが溢れてきたので書いたブログでした。

秋風

秋がきた。なんか既視感のある書き出しだけどまあいいや。

 

秋は風の季節だなと、やってくる度に思う。どの季節でも風は吹いているけれど、秋はその中でも特に風を感じる。

春風は暖かい陽気の方が印象的だし、夏の風は暑さを少し和らげてくれるだけだ。冬の風は冷たすぎて寒さに意識を持っていかれてしまう。

その点秋風はちょうどよく風を感じることができる。ひんやりとした、確かな風の存在感。だけどそれは不快ではなくて、気持ちよく体に響いてくる。酔いが回った時に当たる夜風の心地よさと似ていると思っている。つまりいい風が吹く季節、それが秋。

 

だからなのか、私は秋を思い浮かべるとき、胸を風が吹き抜けていく。ひゅーっという寂しげな音と共に。枯れ葉も舞っている。去来しているイメージは、もはや冬のものかもしれないけれど、でも私はそれを秋風と呼んでいる。それだけ秋は寂しい季節なんだと思っているのかもしれない。

 

そんな寂しさと、吹き抜けている風とを感じさせる曲を、私は秋に聴きたくなる。

そんな曲たちがこちら。

 

JUDY AND MARY「小さな頃から」

秋になって真っ先に思い浮かべるのがこの曲。なんでと言われてもよくわからない。秋を歌ってはいないのだけれど、これは確かに秋の曲だと思う。

「ちいさい秋みつけた」に曲調が似ているから、かもしれないなと思っている。だとしたらこういう曲調は秋なんです。秋の曲として完璧。

 

・きのこ帝国「&」

きのこ帝国の秋の曲といえば多分「金木犀の夜」になるんだけど、風を感じる曲という観点ではこっちかな。イントロの軽やかでいて物寂しげなメロディーが秋。あと歌声が合うね。

 

・SHE'S「Letter」


 この曲が秋なのかはわからないけれど、四季のどれかに当てはめるなら秋にはなると思っている。ピアノの旋律がそうさせるのかな。

 

太田裕美「九月の雨」


 9月になると聴きたくなる曲だった。が、今年は9月が暑すぎて結局聴かなかったな。

70、80年代の歌謡曲やニューミュージックあたりはこういう曲調が多いので、秋の曲も多い気がする。山口百恵の「秋桜」とか。

 

柴咲コウ「眠レナイ夜ハ眠ラナイ夢ヲ」

強く訴えかけてくるのではない言葉たち。子守唄のように聴こえてくる歌は、吹き抜ける風のよう。

 

柴咲コウ「また、うまれるころには」

とても好きな曲。東日本大震災を受けて作った曲らしい。ピアノの旋律と、寄り添って祈ることしかできないような思いとが、秋。

秋風はどこか虚しさも連れてくるものなのかもしれない。

 

・Judy Collins「Someday Soon」


浜田省吾「いつかもうすぐ」はこの曲を日本語カバーしたもので、私はそこから知った。浜田省吾ver.よりもこっちの方が秋感があるかな。好き。

 

浜田省吾「悲しみの岸辺」

アルバム「初秋」に収録されているアレンジのものが、秋を感じさせて良いです。

 

ZARDさわやかな君の気持ち(single ver.)」

ZARDで秋ならこの曲だと思う。さわやかに、どこか寂しげに吹き抜ける風を湛えている。アルバムver.よりこっちの方がそこが際立っていると思う。

 

はしだのりひことシューベルツ「風」

結局この曲の持つイメージに私は引っ張られているのかもしれない。

前も書いた気がするけど、「そこにはただ風が吹いているだけ」という歌詞が私の中の風のイメージになっている。

 

以上かな。秋を歌った曲がほぼないけれど、私にとってはこれらが秋の曲です。

でもやっぱり「小さな頃から」が抜きん出ているな。

 

 

 

季節の変わり目

夏が今日終わる。10月にもなってまだ、残暑というには支配的すぎる陽射しがずっと燻っていたけれど、明日からはいきなり寒くなって秋がやってくる。

季節が急に動き出す。

こういう時、私は焦りを覚える癖があるようだ。

 

そもそも季節の変わり目に私は弱い。体温調節がうまくいかないからなのか、服装を変えるタイミングを見失うからなのか、体調を崩しやすい。

環境の変化に適応するのに人より時間がかかるタイプだ。ずっと続いてきた夏への適応をやめて、秋、そして来る冬へと対応していかなければならないけれど、その移行が簡単ではない。27年も生きているのに、いまだにその術を知らないことに我ながら呆れてしまう。毎度毎度、呆れながら体調を崩し、改善を試みることもなく、そしてそのうちいつの間にか適応している。喉元過ぎればなんとやら、長い冬や夏の間にはそのことを忘れ、春と秋の訪れに自分を呪うことになる。

 

そして、体調を崩すと同時に、焦りを覚える。

急に動き出した季節は、いつまでも続くと思わされるような夏に止まっていた時計の針を、一気に早回しで進めてくるように思える。止まっていた分を回収するかのように。秒針の音が絶え間なく聞こえてくる。まだ夏の澱みの中にいる私は、そこから抜け出す術を知らず、慌ただしく動き出した周りに置いてけぼりを喰らう。

待って。置いていかないで。幼い子供のように泣きたくなる。

いつもそうだ。そして落ち込む。

 

思い返せば夏休みがあった学生の頃からずっとそうだった。いつまでも続く夏休みは、しかし終わりがやってきて、その度に結局何もできず時間を浪費した自分に落ち込んでいた気がする。小学生の頃の、あの8月の25日、31日ごろの感覚が原点かもしれない。

大きな夏休みなどない社会人になっても、私はまだ焦っている。毎週毎週ほぼ変わることなく仕事を続け、時計を止めたつもりなどなかったのに、季節は知らない間にその針を止めていて、そして今動かし出した。

 

秋は嫌いではない。むしろ好きだ。だけど、この変化の急さだけはいつまで経っても苦手なままでいる。

 

西へ東へ

少し前にふと思いついて考えていたことがある。

 

「東(ひがし)」と「左(ひだり)」、「西(にし)」と「右(みぎ)」。

それぞれ文字数が同じだけでなく、母音の構成が同じである。片方だけなら偶然かもしれないが、東西両方とも左右と韻が同じとあれば、偶然ではないのではないだろうか。

つまり、「東(ひがし)」と「左(ひだり)」、「西(にし)」と「右(みぎ)」はそれぞれ語源が同じ組み合わせだったりするんじゃないかーーー。そんな仮説を立てていた。

 

現代に生きる我々は、北が上に描かれた地図で教育されている。だから「東」=「右」、「西」=「左」という意識が強いように思う。地図上ではそのように描かれているからだ。

けれど、それはそのような地図が生まれてからの話であって、言葉としての「東西」や「左右」が生まれた頃の話とは違う。

少なくとも、平安の時代まで遡ればそれは理解できるだろう。平安からの京都の地名にはその左右観が表れていて、左京区が東側、右京区が西側にある。これは御所(天皇)から見て左を左京、右を右京と呼んでいたからだ。京都の町は御所から南側に広がっているから、南向きの見方をすると、現代の北向きの見方とは逆になる。

この考え方自体は平城京の頃でもそうだったようだ。こちらも左京が東、右京が西にあったらしい(平城京Wikipedia参照)。条坊制と呼ばれる都市計画ではこのような街づくりが行われていたという。

なぜ御所は街の北側にあり、南向きで名前がつけられるのだろうか。調べてみると、「南面」という考え方にぶつかった。古代中国では、「天子は南面す」という言葉があり、南に向かって政治を執るという慣しがあったらしい。それを輸入した形の日本でも天皇は御所から南を向いて政治を行っており、そのような使い方になったのであろう。

この辺りの話は、

このページを参考にしました。

 

で、古くは「東」=「左」、「西」=「右」として認識されていたこと自体はわかったけれど、語源が同じかどうかまではわからなかった。

これはなんとかして調べなければ。

 

 

というわけで軽くネットで調べてみた。コトバンクを中心に使いました。

 

「東」の語源……古くは「ひむかし」で「日向し」の意(日が出てくる方に向かって、という意味か?)。「ひむかし」→「ひんがし」→「ひがし」という変遷らしい。

 

「左」の語源……「日の出の方(ヒダリ)」という記述があった。

”岩波古語辞典(補訂版)では「太陽の輝く南を前面として、南面して東の方にあたるので、ヒ(日)ダ(出)リ(方向)の意か」とある。”(右と左と、どっちがえらい? - ことばマガジン:朝日新聞デジタル

この記事中では、”陰陽道の「左=陽・右=陰」とも結びつく。古事記で、イザナギの左目から太陽神のアマテラスが、右目から月神ツクヨミが生まれたとされている”とも書かれている。もしかしたら、「天子南面す」という古来中国の考え方が輸入される以前から、日本では「左」から太陽が出てくると認識されていたのかもしれない。古事記が書かれた時代にはもう輸入されていて、それを反映しただけかもしれないけど。奥が深そうだ。

 

以上を見るに、「東」と「左」は元となる言葉自体は違っていても同じ意味の言葉から成立した概念であり、その結果似た可能性はあるように思う。少なくとも「ひ」に関しては由来は同じだ。

 

西の語源……”語源的には、日の「いにし(往)方」とする『日本釈名(しゃくみょう)』『和訓栞(わくんのしおり)』などの説、日没する意の「ひねし」の転とする『東雅(とうが)』などや、「にぎし(和風)」の義とする『大言海』などの諸説がある”(西とは - コトバンクより、ニッポニカの解説から引用)。

”「し」は風の意。風位からその方角をもいう。「に」は「去(い)に」の「い」の脱落で、日の入る方角の意という”という解説をしている辞書(精選版日本国語大辞典)もあり、「いにし」から来てる説が有力のようだ。

 

右の語源……調べてみた感じ、何やら不明っぽい。手で物を握る方なので「にぎり(握り)」が転じたとする説や、右は南を向いた時に西にあたり日の沈む方なので「みきる(見限)」が由来とする説、かばうようにして物を持つ手なので、「みふせぎ(身防)」の説など。昔は「みぎり」(「ひだり」に音韻を合わせた?)とも使われていたようだけど、そもそも「みぎ」→「みぎり」か「みぎり」→「みぎ」なのかすらわかっていないらしい。

 

以上を踏まえると、「西」と「右」に関しては関連性は不明だった。こちらの韻が同じになったのは偶然かもしれないし、「東」と「左」との対称性からこちらも似た音韻になったのかもしれないし。わからないね。

 

ということで、仮説の検証としては、語源は一緒ではなかったので仮説立証ならず、という感じ。でもほぼ同じところから来てるようではあった。ちゃんと調べれば色々分かりそうだけど、それをするには教養が足りないと感じたので、少しずつ勉強してみようかな。

 

(追記):調べてる中でへーっとなったのは、「西も東も知らない」という慣用句があることである。意味は今でもよく使う「右も左も分からない」と同じだった。

バッテリー

「バッテリー」という小説がある。

著者はあさのあつこ。中学生の野球を題材にした青春ものの児童文学で、全6巻。ベストセラーになっていた。どこの小学校の図書室にもおいてあるレベル。アニメやテレビドラマにもなったから、この物語に触れたことがある人は多いんじゃないかと思う。

 

私はこの「バッテリー」がすごく好きだ。

初めて読んだのは小学生の頃。多分4、5年生くらいだったと思う。図書室に置いてあったのを夢中で読んでいた。何度も何度も読んだ。

中高大、そして社会人になった今でも、ふと思い出した時に、1年に2回くらい読み返すことがある。その度に好きな気持ちが増していく。もう何回読んだかはわからないけど、それでも毎度新鮮な気持ちで読むことができている。

ここまで繰り返し読んだ本は他にはない。私にとっては「バッテリー」はバイブルです。

 

「バッテリー」の何が私をここまで惹きつけるのか。こんなもん分析して細分化して語るのなんて野暮で、読んでくれればわかると言いたくなってしまうけれど、それでは何も生まれない。抜け落ちてしまう魅力はあるだろうけれど、なんとか書いてみようと思います。

 

①文章のリズム感、言葉の紡ぎ方

まずもって文章が良い。何が良いかと言われると難しいんだけど、すごく私の感性に合う。いや、むしろこの文章に出会えたことで私の感性が形作られたのかもしれない。私の書いている文章は相当この「バッテリー」に影響を受けている気がする。文体とか、言い回しとか。

特に、地の文で少年たちの思考や感情を表現しているところが好き。整理されていない、その場面場面で揺れ、迷い、行ったり来たりする生の感情や思考をそのまま、内なる声として表現している。地の文でありながら、それは彼らの心の中の声として届いてくる。

この表現手法を私はよく使っている。自分の心の内をつらつらと書いている時、構成など何も考えず、ただ自分から出てきた言葉や思考を垂れ流しにするような形で書いていることが多いのだけれど、その原点は多分ここから。

あと私は書いている人の声が聴こえてくる文章が好きなんだけど、それも多分ここからですね。

 

それに加えてというか、むしろこちらの方が大きいのだろうけど、文章が格段にうまい。人物、感情、風景、季節、空気感の描写力がすごいと思う。人が生きている様をくっきりと描けているから読んでいる側も入り込めるし、その人々が生きている空間を緻密に描けているから情景がありありと浮かび、同じ空気を吸えているような気持ちになる。舞台は岡山県の新田市とか横手市(いずれも架空。モデルは美作あたりらしい)なのだけれど、鮮明に描かれているからなんか行ってみたくなるね。

あと比喩的なというか、感情や変化を何かに託して表現するのがとてもうまいと思う。季節を表す言葉も、花を描く言葉も、吹き抜ける風も、全てが人を描いているように思えてくる。

中学入試の国語の題材によく使われていたが、それは本当によくできた文章だったからなんだろうなと、改めて思う。

②思春期の呻き

思春期特有の衝動や、不安定さ、他者や自分への苛立ち、捉えようのない漠然とした感情、不安、劣等感、憎しみ、自尊心、そういったものがすごく丁寧に、全編を通して描かれている。

時には喧嘩もし……なんてレベルじゃなく、ずっと何かしらの衝突がある。けれどそれは少年たちが自分の抱えているものをちゃんと大事にし、それを妨げてくるものに抗おうとしていることの表出である。そしてその衝突で少年たちが上げる呻き声が聴こえてくるのが本当に好き。ギリギリと音を立てているような。「ちくしょう」という言葉がよく使われているイメージがある。

 

③登場人物の成長

この物語は少年たちの成長の物語だ。成長、なんて言うとちょっと違うかもしれない。変わっていく様を見届けるのは素直に面白いし、楽しい。そしてその変化は少年たちだけでなく、周りの大人たちにも見てとれる。

他者を慮り、尊び、受け入れるようになっていく。言葉にしてしまえばチープなものだけれど、それが物語として美しく描かれている。

彼らのどういった変化が特に好きか、一人一人について書いてみようかな。

誰がどんな人かは書きません。読んだ人だけがわかればいいやくらいの気持ち。

・原田巧

物語の中心だから一番変化が描かれているわけだけど、少しずつ人と向き合えるようになった、人を理解しようとするようになったところが好きかな。優しくなったとか丸くなったとかとはまた違うのだけれど、人としての成長って感じがあって好き。強靭さと裏腹の脆さを持っていると描写されていたけれど、そこをうまく融合させて強くなった感じなのかな。

私は他人に興味があまりない人間で、だから巧の変化を羨ましく思う。

・永倉豪

人間としての変質が一番強く描かれていたと思う。迷い、悩み、敵わないことを知り、それを受け入れ、覚悟を持った。強くなった、という感じでもないんだけど、他に適切な言葉が思いつかない。変わった、としか言えないのかもしれない。変化の過程が好き。

・原田青波

幼い子供の持つ無邪気さとか純真さみたいなものが、徐々に変容していくというか、それだけじゃなくなっていく姿が好き。いつかこの子も大人になっていくのだろうという遠い目で見守る感じ。

・瑞垣

一番感情移入しているかもしれない。器用さゆえに自分を誤魔化し続けていたけれど、それがうまくいかなくなった時からの変化がすごく好き。彼を中心に描かれている「ラスト・イニング」(6巻完結後の続編のようなもの)は本当に何回も何回も繰り返し読んだ。バッテリーは天才原田巧とそれを受ける永倉豪の物語であり、天才門脇と共にいた瑞垣の物語でもある。天才が側にいることの苦しさみたいなものは胸にくるものがある。なんでもできる優秀さみたいなものを纏った人物だったけれど、途中からは突き抜けられない中途半端さみたいなものの象徴的な人物になっていた。一番人間らしさを感じている。キッパリ諦めようとしたのに結局諦めきれないのは今の自分とすごく重なって、だからとても好きです。

・門脇

天才と呼ばれ続け優等生キャラだったのが、巧との出会いから怖いくらいに変わった。約束されていた将来を半分捨ててまで執着するほどの変わり方は本当に恐ろしい。でもそれは人間的にいい変化な気がするので、なんか好き。

・海音寺

天才という業を背負った巧や門脇、その一番側にいてしまったという業を背負ってしまった豪や瑞垣とは違い、少し距離がある。だからこそ描かれている変化は彼らと比べて小さめではあるけれど、確かな成長のようなものを感じる。作中で一番いいやつ。彼が中心に描かれているシーンは大体好き。

・戸村

強権的で管理型だった監督が、巧というピッチャーに揺さぶられ、少しずつ変化していく。最後の方では対等な感じで描かれるようになっている。大人側も少年たちに影響され、変化していくところがこの物語の良いところかもしれない。この変わり方はね、なんかいいですよ。

 

他にも色々あるけれど、あんまり書きすぎてもしょうがないしこの辺にしておく。あとは母や祖父との関わりを通して描かれる変化も好きだな。

④答えをくれる気がする

読んでいて人生の教科書的だなぁと思うことがある。少なくとも私にとっては。

何度も読み返しているのだけれど、読みたくなるタイミングは多分何か悩んだりしている時で、そういう時に答えじゃないけど気づきを与えてくれるような気がしている。

今だってそう。かなわねぇなぁという劣等感と、そこから沸々と湧いてきてしまう憎しみに似た感情と、それを解消できない苛立ちとをずっとどうすることもできずに持て余していた。

そういう自分の抱えているものが、作中の少年たちの姿に被ったりする。彼らの物語を見て、ふっと自分のこととして考えて、少しだけ道を教えてもらえたような気持ちになる。そうだね。立ち止まった時に、道がわからなくなった時に読んでいるのかもしれない。

勇気をもらうとか、力をもらえるとか、そういうことではないんだけどね。生きていることの、若さの瑞々しさみたいなものに触れて、確かに自分にもあったそういう時期を思い起こす。森林浴のようなものかもしれない。

今は読んでいると、自分を誤魔化すなよと何度も声が聴こえてくる。瑞垣が自分に重なってくる。

巧に憧れ、豪に頷いていた子供の頃があった。いつからか瑞垣に深く心を刺されるようになった。いつかはきっと海音寺だったり、門脇だったりした。そうやって読み方は変わっていく。

 

 

惹かれている理由をいくつか挙げたけれど、これじゃ全然魅力を書けていないなぁと嫌になる。

もっと瑞々しく良さを描けるようになりたいなぁって思ってしまった。でもそれの究極のゴールは多分「バッテリー」そのものになってしまうので、どのみち無理なような気もする。難しいね。

 

これからもきっと何度でも読み返すし、その度に新しい発見がある。出会えてよかったな。