思い出の向こう側

好きなものや思い出について書いたりしています

書くこと

最近はとても内省的な文章が多くなってしまっている。

そのこと自体は別に悪いことではない。

内省的なこと、あるいはそこに含まれがちなネガティブなことを書くことが、自分にとっては必要だったのだろうと思う。その行為によって考えが整理され、モヤモヤが少し晴れ、気づきを得たりもした。気持ちが楽になったりもした。

だけど、それだけでは重苦しい空気に覆われてしまう。ここに何かを書くという行為が重さを持つようになり、新しいことをなかなか書けなくなってしまった。重たい。

 

書く、という行為はもっと軽くてもいいはずだ。

そしてこの場はあくまで自分のためのものであるから、もっと気軽に、書きたいことを書いたっていい。自分の中から溢れ出した言葉や感情を、溢れるままに綴ったっていい。そういう場所でいいんだと思う。

 


 

ここ一年くらい、自分のことについて書くことが多かった。最初は好きなものについて書く場にしようと思っていたのに、段々好きなものを語ることが減っていった。

 

それは多分、自分の語る言葉に自信がないからだろう。

好きなもの、例えば曲や本について語るとき、同じものについて語る人は既にどこかにいる。ZARDについて語ってる人なんて多分いくらでもいる。中島みゆきとかにしてもそうだ。

そしてその人たちよりも上手かったり、情熱的だったり、魅力的だったり、あるいは細かく分析したり、情報を正確に伝えたりするいい文章を書ける自信が全くない。文章なんて勝ち負けじゃないんだけど、土俵に上がる前から負けているような気持ちになってしまう。

別に自分が今書かなくても、誰かが書いたいい文章を読めばそれでいいじゃないか。その方が多分正確だし。熱も伝わるし。言いたいことはその誰かの言葉でもう言い表されてしまっていたりする。今自分が語ろうとするその行為が少し虚しくなる。

そしてそういった過去の文章に勝とうとするほど労力をかけたくはない。より良い表現を探すのは大変だ。

 

そう思ってしまうからか、なんだか好きなものについて語るという行為が難しくなってしまった。何について書いても、上位互換がいるんだなと思ってしまう。

別に下位互換なら書いちゃいけないなんてこともないし、書くという行為自体に意味がある(主に自分の中に)のだから気にしなくていいことなんだけど、難しいね。

 

 

そんな中で、これについてならば他の人より良い文章が書ける、というものが一つある。

私自身のことだ。

そもそも私について書く人は、私を除いてまずいない。競合相手がいない。そして競合が仮にいたとして、私以上に私を知っている人なんていない。私だって自分自身のことを完璧に知っているわけではないけれど、他の誰よりも私を知っていることに関しては疑いようがない。それくらいの自信はある。

 

だから自分のことについてならば、誰かの方が上手く書けるかもしれないなんて不安を一切抱くことなく言葉を綴れる。それで最近は自分のことについてばかり書いていたのだろう。

実際めちゃくちゃ書きやすかった。情報が間違ってるかもしれないなんてあまり思わずに(調べずに)書けるのもいい。楽。

 

だけど少し疲れてしまった。自己開示は精神的負荷が少し高めだ。

 

なのでやはり、もっと気軽に言葉を綴っていたい。好きなことについて細かく語るのもいいけれど、もっと単純に「これが好き!」って言うくらいでもいいのかもしれない。気楽に行こう。

 

重いものも、軽いものも、考え悩んだ末に綴る言葉も、溢れ出るままの言葉も、全てごちゃ混ぜの空間にしておいて、なんでも気軽に綴れるようにしておきたいな。

 

そのためにも、次は軽い文章を書けるといいな。書けるかな。

 

こんなことを書いといてなんだけど、軽い文章ってどんな文章なんだろう。あまり自分の中で定まっていないな。今書いているこの文章も軽いんだろうか。多分重くはなっていないからこれくらいの感じでいいのかな。いいか。それとももっとふわふわした感じかな。まあいいか。

書きたいように書こう。それが重いか軽いかなんて、さらに言えばいい文章かそうでないかなんて気にせずに。いい文章を書こうなんて気取るのは書く姿勢としてなんだかおかしい気がする。その域には当然ながら達してないし、それをやるなら文章についてちゃんと勉強しなきゃね。勉強しようかな。でも今の自分の文章は好きだから、それをわざわざ壊してしまうのも違う。まあ今はこのままでいいか。

 


 

この文章を書いていて、 「これが好き」「ここが好き」という気持ちを誰かの言葉で表現するのはやめにしたいなぁというのを思った。

誰かがこう言っていたから、というのではなく、自分がこう思ったんだというのをちゃんと表現できるようになりたい。それがたとえ他の人の感性と違っていたとしてもいい。

その自分の感性の言語化をサボらないようにしたい、ということでもある。

誰かの言葉を借りて、そこに自分の感性を託すのは楽ですからね。だけどそれはあくまで誰かの感性であって、自分の感性とはどこかにズレがある。ズレがあるのにそれに乗っかってしまうのは自分自身に誠実ではない。自分に誠実でありたい。

 

だから、自分の感情の言語化をしっかりできるようになりたい。そのための訓練としても、やはりこの場で好きなものについて自分の言葉で語るというのは大事なことだなぁと改めて認識した。どこからが自分の言葉と言えるか、というのもまた難しいんだけどね。今までに読んできた文章の積み重ねが、今の自分の言葉になっていると思うし。自分だけの言葉なんて多分持ち合わせていないし。

そして言語化はとても難しいし、苦しい作業でもある。できる自信はあまりないけれど、少しずつ挑戦していこうと思う。

 

(追記):

書いてみてから振り返ると、この文章の中において語られている軽重の物差しは様々な意味合いを含んでいるのに、そこを区別することなく(意識化することなく)書いてしまっていたなという印象を受けた。

言葉の軽重、文章としての軽重、そして書くという行為の軽重。似たようでいてもおそらく違う。その差異の言語化はまだできていないけれど、それらを全て”軽い”あるいは”重い”としてまとめて表現してしまうのは、少し違ったかもしれないなと思った。

書く行為を自分の中で少し軽くしていきたい、という思いを実現するための方法論としては、軽い文章を書くという目標はズレがあるような気もする。もしかしたらズレていないかもしれないけれど、そこは自分の中であやふやだ。わからない。

そういう意味では、そこを区別せずに語るのは言語化をサボってしまったと言えるのかもしれない。

 

ただ、今の私が”重さ”のほうに比重をかけているのは事実で、その上で”軽さ”も必要だと感じているのもまた事実。そしてその私の傾向は、言葉や文章、書く行為に対してだけではなく、もっと広く自分に対して感じていることでもある。だからそういう意味では、今回細かく区別することなく”重い””軽い”と表現していたのは自分の中で正しいことでもあった。

 

(追記その2):

”ナンバーワンにならなくてもいい もともと特別なオンリーワン”という歌詞がある。

もう20年近く前の歌だ。たくさん流れていたからたくさん聴いた。小学校の音楽の授業で歌ったりもした気がする。その頃はこの歌詞がそこまで自分の中で特別にはならなかった。まあそうだよね、くらいで流していた。

 

今、この歌詞が改めて響く。

 

”ナンバーワンにならなくてもいい もともと特別なオンリーワン”って思えるのは案外難しいことなんだな、と思う。難しいことだからこそ、それを歌ったこの歌が社会に響いて受け入れられ、国民的な歌になっていったんだろうな。

私が何かについて書くとき、誰かと比べてしまったり、そこに勝ち負けを感じてしまったりするのは、やはりどこかで一番になりたがっているんだろう。ナンバーワンじゃなければ意味がないような、そんな感覚を拭いきれない。ナンバーワンじゃなくてもオンリーワンだからそれでいいんだって簡単には思えない。そう思えるようになるといいな。難しいね。

この歌を忘れないようにしておこう。