思い出の向こう側

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線路は続くよどこまでも

人生を線路に例えて、レールから外れてしまった、という言い方をすることがある。

私もどこかでレールを踏み外したというか、レールを真っ直ぐには走れなかったな、という思いがあった。

 

だけど今改めて振り返ってみた時、そんなにレールから外れてはいなかったなと思い直した。

実際のところ、そのまま真っ直ぐにレールを走ってこられた人生ではない。一般的な人生の構造からははみ出してしまっているんだろうな、と思うのは今でもだ。

だからといって、レールから外れてしまった、ということにはならない。

 

私の中の今のイメージで言うなら、列車から降りた、と言う表現の方が近い。そのまま乗っていれば「普通の」人生を歩いていけたかもしれないけれど、なぜか途中で降りてしまった。だけど、別に改札を出て道のない道へと進むわけではない。

次に来る列車ーーそれは行き先が前と同じだったり違ったり、時には戻る方向のものだったりするがーーに乗ってまた人生を歩き出す。それだけのことだ。

レールから外れた道を歩けるほどの根性も度胸もない。

 

レールから外れることへの不安、というのもよく言われていることである。受験や就職などに失敗してレールから外れたらもう戻れないんじゃないか、といった強迫的な不安。私だってレールから外れることはとても不安で仕方がない。怖い。臆病だ。

 

だけど、受験や就職のようなものであれば、今までもずっとそんなに不安でもなかった。まあ落ちたら次頑張ればいいさ、全滅したら来年があるさ、なんて思っていた。それはきっと、そういう失敗は列車から降りてしまっただけ(あるいは乗れなかっただけ)であって、レールを外れたわけじゃないって思っていたからなんだろう。次の列車に乗ればいいだけなんだから。

 

次の列車がやってこないかもしれない、なんて不安はあまりない。次の列車は必ずやってくる。例えそれが終電であったとしても、夜明けを待てば始発がやってくる。そういうものなんだ、と思えば人生が少しは楽になる。気楽に行こうぜ。

さらに言えば、次の列車が来たからといって慌てて乗らなくてもいい。その次だってやってくるんだから。

 

振り返ると、私は何回か列車から降りている。明確に降りたと言えるのは、学部を変わった時と、休学した時と、大学院に行くことを諦めた時か。でもその度に次の列車ーー何本か見送ったりもしたがーーに乗って、今こうして生きている。見送らずに乗れば良かったな、と思う時もある。でも乗れなかったな。人生はそんなもんだ。

その代わりというか、降りたことへの後悔は不思議とない。あの時は降りなきゃいけなかった。

 

寒い駅に1人ぽつんと取り残され、ホームにはもう誰もいない。そんな時、待合室があるような駅で待てたら幸せなことでしょう。あるいは誰か一緒に待ってくれている人がいたら、一緒に寒いねなんて言い合える人がいたら、それも幸せでしょう。できればそういうところで待ちたいですね。

だけど1人寒いホームで凍えながら待っている時間も、それはそれできっと意味になるだろうから。あの時の不安や孤独、寒さもきっと。降りたくなったら降りちゃえばいいんだ。

 

次はいつこの列車を降りようかな。

 

 

追記:

レールを外れるという時、自分の中に二つ意味があることに気づいた。

一つは、レールが途切れて道なき道を進むこと。それはとてつもなく怖く、不安で、誰に頼ることもできない。先へ進めば進むほど細くなっていく、先達の足跡もない道を進むことは、私には到底できないと思う。そのような道を進む人たちには畏敬の念しかない。

もう一つは、人の道を外れてしまうこと。今私は道を踏み外してはいないだろうか、と不安になる。倫理や道徳的な意味合いが強いかな。ちゃんとした人間でいられていますか……?と自分に問いかける。多分……と答えるしかない自分がいる。

 

どちらの意味であっても、レールを外れることに不安と怯えを感じていることには変わりがない。ただ、前者の意味であれば、積極的に改札を出て道なき道へと進まなければいいだけだし、後者の意味であれば、それは自分が人としてちゃんとするということだけを守っていれば、例え失敗があったとしてもレールを外れることにはならない。

そう考えているからこそ、私は失敗によってレールを外れる不安というものを感じずに済んでいて、列車を降りているだけだと思えているのかもしれない。

 

 

あと、列車に乗る/降りる という捉え方は、北山修氏の著書から影響を受けている。レールではなく列車なんだという風に考えられるようになって少し楽になったのかもしれないな、と今振り返れば思う。読んだ当時はそんなことを考えていなかったけど。