思い出の向こう側

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短歌の世界

もうだいぶ前の話になるが、友人に誘われて熊野寮で行われていた熊野文芸市場というイベントに遊びに行った時のこと。2月のことだったので本当にもうだいぶ前だ。

そこでは京大の(とも限らないかもしれないが)いろいろなサークルが自作の文芸誌だったりを売りに出していた。せっかく来たのだから何かしら買って読もうと思い、物色している中で出会ったのが、京大短歌会が発行している「京大短歌 23号」だった。

 

その時の最新号は27号とかなので、だいぶ前のものになる。発行は2017年。

最新号も含め何号も置いてあり、そこからいくつかをパラパラとめくっている中で、目を惹かれたのが23号の特集『三〇周年記念歌会録』だった。

歌会という文化を私はあまり知らず、歌会始のようにその場で詠んで終わりだと思っていた。が、そこで行われていたのはもっと面白そうなものだった。これだと思い、勢いで購入した。そして後日ゆっくりと読み進めていったわけだが、やはり面白かった。

この歌会では現役の会員とOB/OG合わせて11人がそれぞれ歌を詠んで持ち寄り、それを誰が詠んだ歌かわからない状態で一首ずつ歌を読み解いていく。三十一音という限られた空間の中でこの表現を選んだ理由は何かとか、この歌のイメージはどこにあるのかとか、情景描写としてどうかとか、象徴的な意味はぼやけていないかとか、この歌のここの音が良いとか、もっと良い歌にならないかとか。ただ褒め合うとかではなく、目の前に呈示された一首に真剣に丁寧に向き合い、三十一音で表現されている世界を味わう。ものすごく繊細に言葉を扱いながらも、大胆な使い方も許容されていて、その振れ幅も含めてこの世界を愛したくなる。言葉や音の持つ意味、イメージ、世界。私はここまで丁寧に言葉に向き合ったことがない。

そして、私は短歌の楽しみ方をこの歌回録で教えてもらった。私は百人一首がとても好きで、百首とも覚えているけれど、細かく丁寧にその美しさを読み取ったことはなかった。けれどこの歌会録を通して、その世界の味わい方を幾許か知ることができたように思う。

 

短歌特有の文字数制限、五七五七七のリズムという枠が、言葉を繊細に扱うことを否応がなしに求めていて、だからこそ美しくなる。

私はこのブログでもそうだけれど、どこか冗長に言葉を扱う傾向がある。説明調というか、世界をみっしりと言葉で埋めたくなってしまう。全てを溢れないようにしたくなる。

短歌は違う。世界から言葉を削ぎ落として、削ぎ落として、五七五七七に落とし込む。そして削ぎ落とされた部分も余白として表現される。そこに広がる世界は、みっしり埋められた世界よりも広く、自由で、美しい。なんだかとてつもなく羨ましくなる。

削ぎ落とすという行いは、説明を足していくという行いと比べて、とても真剣な眼差しで世界を見つめ、言葉と向き合わないとできないことなのだと思う。もっと私も言葉と向き合っていたいし、できるかどうかはともかく、私も短歌を詠む気持ちで世界を見つめていたいな。

 

 

(追記):23号を読んでいる中で、短歌もそうだけど、そこに寄せられているエッセイの数々がとても好きでした。こういう文章を書けるようようになりたい、と思う瞬間ばかりで、それは短歌会の方々が日々真剣に言葉と向き合っているからこそのものなのだろうな、と敬意を抱きました。京大短歌会の皆様、良い歌集をありがとうございました。またじっくり読み返します。