思い出の向こう側

好きなものや思い出について書いたりしています

光をたどって

暗いことばかり書いていると、どんどん暗みにはまっていってしまう。今でもまた暗いことを書いてしまいたくなる。それもそれで必要なことではあるんだけれど、日常を生きている以上、それだけでは上手く生きられなくなってしまう。影だけでなく明るい面にもちゃんと目を向けていた方が絶対に幸せだと思う。

気分を変えて、好きなものについて書いていきます。

 

羊文学「more than words」

ざらっとした感じがすごくいい。シティポップのような綺麗で整った音楽の上にロックのようなざらつきがあり、歌も綺麗ではあるんだけれどどこか違和感があって、すっと流れず心に残る。でもその違和感は不快ではなく惹かれてしまう類のもので、もがいている歌詞と合わさって心を掴まれてしまう。

いわゆる「綺麗」ではない、飾らない生の衝動だからこその美しさと、洗練されている美しさみたいなものが両立している気がしてすごく好きだし、これができる羊文学はやっぱりすげーなって思ってしまう。最近の羊文学では一番好きな曲。

 

田中ヤコブ「ピクニックボーイ」

このざらつきが好き。なぜかはわからないけれど泣きたくなる、そんな音楽。懐かしさというか、郷愁のようなものに訴えかけてくる感じ。これを好きでいる自分でいたいな、みたいなことも思う。

 

きのこ帝国「スピカ」


きのこ帝国のアルバムは大抵聴いていたけれど、シングルのカップリングだったのでこぼれ落ちていた曲。寂しくて暖かくて心に沁みてくる。「君はもうここに居ないけど」「忘れることなんてできないから こうして今も」なんて、まだきのこ帝国が戻ってくることを諦めきれない私の心を映しているようで。

 

櫻坂46「その日まで」


菅井友香の卒業ソングで、去ることを選んだ人の曲だから今の私に響く。

「じゃあね じゃあね じゃあね 笑って手を振りながら あなたの心の片隅に残りますように」

いなくなって私の存在が完全に消えてしまうのはとても寂しいから、心の片隅には私が残っていてくれたらいいな、なんて身勝手にも思ってしまう。片隅でいい、ほんの少しでいい、私がそこにいたことを時々思い出してくれたらそれで私は救われる。今のこの京都での縁が途切れず続いたらいいな、またいつかみんなに会えたらいいなとも思うけれど、勝手に去る人間がそれを願うのはあまりにも傲慢だ。だから片隅にだけでも残しておいてほしい、それだけでいい、それくらいは願わせてほしい。そういう思いを抱きながらこの曲を聴いている。

 

とようけ屋山本の京揚げ

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もうずっと好きな京揚げ。どこのスーパーでも売っているわけではなく、近所だとイオンかデイリーカナートでしか売っていない。280円くらいするので少し高いけれど、それ以上の価値がある。

適当なサイズに切ってフライパンで油なしで焼き、両面こんがりしたら醤油と生姜で食べるのが格別。鍋に入れても最高。一番合うのは多分水炊きかな。

何が違うのかはよくわかっていないけど、多分製法とかがいいんでしょうね。

”昔から「揚げはこんがり狐色」と云われています。とようけ屋山本の揚げ豆腐(油揚げ)は明治のままの製法を引き継いで「こんがり狐色の薄揚げ」を造りたいと思っています。にがり(塩化マグネシウム)100%の揚げはおいしいと云われますが、製法が難しく数もとれません。にがり100%の木綿豆腐を深箱で造り、大きな絶ち包丁で切り分け、布を敷いた板の上に載せ水切りします。それを畳一畳ほどの大きな鍋で一枚一枚竹の箸で揚げるので、形や大きさも不揃いでキズも多くなります。しかも時間もかかる為、1時間に50~60枚しか揚がりません。しかし、皮の柔らかい揚げが造れます。”

とのこと。

同じくらいの値段で色々なスーパーで売ってる「上田の手揚げ」は個人的には全然好きじゃなかった。断然、とようけの方がいいと思っている。とようけ>>>100円くらいの安い京揚げ>>>>>上田の手揚げ、くらいのイメージ。

あとは普通にその辺の豆腐屋で売っている京揚げも美味しいです。よく行っていたのは出町の商店街のところの豆腐屋と、銀閣寺近くの豆腐屋。あとはメルシーマルギンで売っていた西初の京揚げは割とお手頃な上に美味しかったのでよく買っていた。伏見に来てからは近くに豆腐屋が全然ないので、とようけ一択になってしまっている。

京都を去ることになっていろいろ寂しいことがあるけれど、美味しい京揚げを食べられなくなってしまうのは結構大きな痛みかもしれない。それくらい生活に根付いた幸せだった。もう少しの期間、しっかりこの幸せは噛み締めておこうと思う。

 

季節の移ろい

少しずつ秋を感じている。

金木犀の香りはやっぱり落ち着く。今日行った平等院ではもう葉が色をつけ始めていた。

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高雄の神護寺なんかはもうそろそろ綺麗な頃合いかもしれない。来週か再来週にでも行こうかな。

日がどんどん短くなり、定時で上がってももうあたりが暗くなってしまっている。そのことはすごく寂しくて嫌だけれど、その変わり方を見ているのは楽しい。今はまだ、定時では西の空に光がある。多分あと1週間もすれば真っ暗になってしまうんだろう。きっとそのうちに慣れて、今度は少しずつ明るくなっていく春を楽しみにするのだけれど、その頃には私はもういない。

 


 

私は人に恵まれているなと思うことが多い。私は自分のことをそんなにちゃんとした人間だと思っていないし、魅力的な人間だとも思えないし、面白い人間でもないし、何かをしてあげられるでもないし、人付き合いも自分からあまりできないし、連絡も全然取らない。一人でいることがそんなに苦でもないから、誰かから誘われたりしないとすぐ一人になってしまう人間だ。

だからそんな私に連絡をしてくれたり、飯や飲みに連れて行ってくれたり、心配してくれたり、他愛もない話をしてくれたり、相談に乗ってくれたり、困っているときに助けてくれたり、なぜか慕ってくれたり、頼ってくれたり、私の大学院合格を喜んでくれたりする人たちがいることがとても有難い。そういった人たちをちゃんと大切にできる人間でありたい。そしてその有難さに寄っかかっているだけではダメなこともわかっている。

そういった人たちが私のことを人間として好いてくれていて、だから良くしてくれるのだと盲目的に信じられたらもっと楽なんだけれど、私は自分に自信がなくて信じきれないでいる。なんでこんな私に関わってくれるのだろうって思ってしまうのは多分良くない癖で、もっと素直に受け取った方がいいんだろうな。愛を持って私に接してくれている人たちの愛を疑うのはその人たちに失礼なことだし、悲しいことだし、愛を裏切る行為だとも思う。

もちろん打算的な何かだったり、社会性から仕方なく我慢してのことだったりもあるだろうけれど、それが全てではないはずだ。一旦信じよう。それで裏切られることもあるかもしれないけれどそれでもいい、自分が裏切るよりは絶対にマシだと思うから。そういう生き方を私は選んでいたいんだ。