思い出の向こう側

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目の前

数日前、お出かけしようと家を出て、幹線道路の歩道を歩いていたら一匹の柴犬が前からやってきた。

その犬には首輪がついていたけれど紐には繋がれていなくて、あたりを見回しても飼い主さんらしき人もいない。多分何処かから脱走したんだろう。犬の来た方を見ても誰もいない。探している声も聞こえない。

どうしよう。

迷っているうちに犬は交通量のとても多い車道に出てしまった。ヤバい。

幸いなことに信号が赤で車がほぼ動いていなかったこと、渋滞気味で動きも遅かったことで、犬はウロウロしつつ、車の前を横切ったりしつつ対岸へ渡りきった。そして脇道へと行ってしまった。飼い主さんらしき人は現れないままだった。

探している人が確実に近くにいるのがわかっていれば、私は一旦保護して車道に出ないようにしてあげたりとかできたかもしれない。でも誰もいなくて、結局私は傍観者になってしまった。

 

 

数日間、ずっとその時のことを考えている。

あの時どうすればよかったんだろうか。一旦犬を保護し、車道に出ないようにして、近くにいるかもしれない飼い主を探すか、見つからなければ警察にとかなんだろうか。正解かはわからないけれど、何か関わるとしたらそれくらいしか思い浮かばない。

でも実際できただろうか。犬は紐もついていないから保護するのも難しい。怖がらせて車道に飛び出させてしまってもいけない。そもそも飼い主がすぐに見つからなかったら、一旦抱えてしまった以上は最後まで探さなきゃいけない。警察にというのも正しくないかもしれない。難しいな。

自分が関与することで犬を傷つけてしまうのが怖くて、私は傍観者だった。

 

私が目撃していたその時は少なくとも無事でいてくれたことにホッとしているけれど、でもその後どうなったかは何も知らない。ちゃんと飼い主のところに帰れたのか、今でも彷徨っていたりしないか、最悪の場合またフラフラと車道に出て今度は不幸なことに……とか、色々なことを考えていた。なんだか怖くて、その犬が渡っていた車道を通るたびチラッと見てしまう。

 

もし轢かれでもしていたら、私は罪の意識に押しつぶされそうだし、すごく悲しい気持ちになるだろう。

でも、この世にはそうして失われていく命なんていくつもある。今この瞬間にも。犬だけじゃなく、人間も。

そういった数多の命に鈍感で何とも思わないくせに、一瞬だけ出会った犬にだけ感情を注ぐのは何か違うんじゃないかって思う自分がいる。

良い人ぶっているだけなんじゃないかって。

目の前で失われたかもしれない命に、私は特別なものを感じて今でもこうやって考えているけれど、目の前ではないところで失われる命に対しては同じように考えたことがあっただろうか。私が幸せを感じている瞬間や、スヤスヤと眠りについている瞬間に、世界で生まれているいくつもの悲しみに目を向けたことはあったか。

別にそうでなければいけないというわけではない。そんなことをしていたら生きてはいけない。だから仕方のないことではあるけれど、それを肯定して生きていたいわけではない。

 

こういった思考は、おそらくあの時の自分を正当化しようとしているものだと思う。

5分家を出るのが早ければ、あるいは遅ければ、出会わなかったし何も見なかったわけで、その結果は多分私が傍観していた現実世界と変わらないだろう。目の前ではないところで起きていることと同じなのだから、私は無関心でいていいはずだって。何も罪を感じなくていいんじゃないかって。

誤魔化しだ。本当はわかっている。あの時の臆病な自分を私は悔いている。

 

あの時やるべきだったのは、うまくいくかはわからないけれど、その結果命を失わせてしまう可能性だって勿論あるけれど、ちゃんと守ってあげようとすることだった。多分。

 

目の前の命を救おうとしない人間に、他の命を救えるか。ずっとそう思っていたのに、あの時私は何もできなかった。

 

次はちゃんとしよう。周りの人の手を借りたり、自分が危なくはならないようにする必要はあるけれど、そうやって手を差し伸べることができるような人間でありたい。

 

(数ヶ月後の追記):

先日、同じ場所を歩いていた時、同じような柴犬に出会った。今度は飼い主と一緒だった。多分それはあの時の犬で、その無事を見て私はとても救われた気持ちになった。