思い出の向こう側

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境界について

境界というものにとても興味がある。

境界が好き、といってもいいかもしれない。どこに境界があるのかを知りたい。

県境を歩いて超えたりするのが好きです。

 

色々なものに境界がある。

例えば海と川、日本人と外国人、子供と大人、男と女、文系と理系……など、何かを分けていけばそこに境界が存在する。

 

でもその境目は曖昧なことが多い。だいたい物事は0か1かではなく、その間も連続的に存在することが殆どだ。スペクトラムを示している。

海と川の境目なんかも、結局は曖昧で汽水域であったりゆらゆら帯と呼ばれる場所がある。海でも川でもある場所。そこに仮に境界線を引いたとしても、その両サイドで何かが大きく違うわけではない。ほぼ同質なのに、一方は海、もう一方は川と分けられてしまう。

 

人間を二つに分けた時も同じようなことがある。境界線付近にいる人たち、どちらにも属しているようだったり、あるいはどちらでもない人というのがどうしても存在してしまう。

 

この境界にいる人たちのことをマージナルマン、境界人と呼んだりする。両方に所属するもどちらにも完全に所属することはできずにいる人たち。元々は社会学において文化の境界について使われている言葉で、移民だったりハーフだったり複数文化を背景とする人たちを指したりする。

心理学的には子供と大人の間、モラトリアムのような青年に使われたりしている。

 

アイデンティティをどちらの集団にも置き切れないから、どうしても不安定だし葛藤を持ちやすく動揺が多くなる。揺らいでしまう。すごく生きにくいんじゃないかと思う。

 

だいたいのものは二分して語られるとき、対立関係として語られやすい。男女もそう、子供と大人、日本人と外国人もそう。

集団への帰属意識、所属意識というものは人間を安定させるんですよね。

片方のみに所属していればもう一方を攻撃しやすい。攻撃することによって自分の属している側を強固にし、アイデンティティを安定させることができる。対立関係になりやすい。

 

ところが境界人の場合、自分を攻撃することになってしまうからそれができない。攻撃性が自分の内部に向けられ、アイデンティティの安定は満たされない。

あまり幸せな形ではないんですね。

 

私はこの数年というもの、自分が境界にいるということを感じるようになった。子供でいたいけれどもう子供とは言えない、かといって大人にもなれない、なりたくない。モラトリアムでいたいけれど、モラトリアムを抜け出したい気持ちもある。

 

大学生としては文系と理系に分けられるけれど、心理学はまさに境界にある学問だからどっちなんだろうとなる。所属していた研究室の内部においても、理系的な研究や文系的な研究、どちらとも言えない研究があった。最終的に研究としては文系だったけど、途中やろうとしていた研究は文理融合だったし、もともと入った学部は完全に理系だった。

だから文系と理系の対立構造にはずっと違和感を覚えていて、就活をしているととても苦労する。どちらかで答えなきゃいけないということは、もう一方を捨て去ること。自分の中に60:40で存在しているのに、それを100:0で答えるということ。これは他のことにも言える。二分法で態度を迫られるけれど、そんなに簡単に答えられるはずがない。人間はそんなに割り切れているものじゃないんだ。

 

 今就活していても、もう卒業してしまっているから新卒という枠には完全には入れない。かといって既卒の枠かというと、就業していたわけでもないし、昨年度に就活をしていたわけでもないから何かが違う。マインドは新卒なのに、制度上はそうじゃない。

実態としては新卒として扱われることが多いので助かってはいるんだけど、どうにも属しきれない。

 

発達障害とかもそうだと思う。今ではスペクトラム的な見方が主流になっていて、健常者であるか障害者であるかは程度問題として扱われる。

私にしたって例えば多動の傾向はあるように思うし、他にも色々あるけど困っているわけじゃないから障害になっているとは思わない。

基本的には困っているか困っていないかが線引きだったように思う。ただどうしても閾値を設けて線引きをする必要も出てきて、困っているのに閾値の外で障害として認定されないなんてこともある。そういった人も境界人の一種だろうな。

 

精神医学の世界でも境界人は存在していて、境界例として扱われている。

神経症分裂病の中間だったり、あるいは神経症でも精神病もないけれど健常でもない病理のことだったりと定義は結構移り変わっていて、この辺りも境界らしさを感じられる。今だとボーダーラインパーソナリティーとかがよく言われる境界例だったか。ボーダーラインって言ってるくらいだし。

この分野での境界人は、精神病や分裂病神経症、あるいは健常のように人の状態に線引きをして分類をしていった時の境界にいた人たちだと思えばいいのかな。この辺りはもっとしっかり勉強したい。

 

 

分類することによって人間は色々なものを把握したり特徴を見つけてきたわけで、それは有用ではあったけど、そこには境界線によって犠牲を払わされる人たちがいるということも知っておく必要があるということを最近思うようになった。イソップのコウモリだって分類による犠牲者だろう。

 

 

ここまで見てきた中では境界にいるというのは不幸な状態を引き起こしやすい。けれどその分エネルギーを持っていたり、違う目線を提供できるとも言われている。

そういったプラスの面も含めて、境界についてもっと深く勉強していきたい。きっとそれは私の生きる糧になってくる。

 

 

境界についてはまだ知らないことが多い。だけど知りたい。

多分ずっと私は境界にいるから。帰属できずにずっと故郷を探す旅人を続けるんだろうな。そんな気がしている。