思い出の向こう側

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自分

私はすごく自己中心的な人間である。

あまり他者のことを考えられない。思考の中心にあるのはいつも自分自身のことで、思考はずっと内側に向いている。いつだって自分のことを考えている。他者に興味がなく、自分にしか興味がないとさえ思う。

 

ただ、これはあくまで自己評価で、周りからはどちらかというと他者を慮る側の人間として見られてきた気がする。思い上がりかもしれない。自分を正確に客観視することは出来ないので実際のところはわからない。しかし、どちらかといえば他者を大事にするような人間として振る舞ってきたし、そういう自分を見せていたと思う。演じていた、とも言えるが、演じていないところも含めてそういう評価になるだろうな、という気がするので、見せてきた自分、というのが一番近い。これは自覚的なところである。

 

そして、周りからだけでなく、自分でもそう思い込んできた節がある。私は優しく思いやりがあり、他者のことを考えられる人間です、と。実際、表面的にはそうだったように思う。あるいは、理想としてこう在らなければならないと強迫的になり、演じていた(演じているという自覚もなく)のかもしれない。そういう人間でいることを求められていて、それに応えていた。そんな気もする。

 

別にそこまで無理をしていたわけではない。それに、実際私は共感性が高い方でもあると思うし、他者のことを考えること・思うことはどちらかといえば得意分野だとも思う。多分ね。

一方で、感情移入しやすいから、人より少し疲れやすいし、少し生きづらいんだろうなぁとも思う。

 

だからずっと自分自身のことをそう思ってきたけれど、ちょっと違ったんじゃないかってこの数年で思うようになった。私は本当はもっと自己中だ。

 

他者を思うことはある。感情移入したりして、その誰かが悲しい時に一緒に悲しんだり、嬉しい時に一緒に喜んだりすることだってある。感情を動かされて泣いちゃったりすることも、多分人よりも多い。人の心の痛みを感じると、自分の痛みであるかのように苦しくなる。

だけど、それは結局のところその誰かに自分を投影して、重ね合わせて、その影を通して自分自身を見ているのに過ぎない。本当に誰かのことを純粋に思って考えているわけではなく、ただ自分を見ているだけだ。その人を通じて自分自身の心を考える、それだけが興味なのだ。

私が誰かに対して思いやりや優しさのあるような行動をするとき、それはその誰かを助けようとしてするわけではなく、その誰かが苦しんでいるとそこに投影している自分自身が苦しいから助けているだけだ。助けたいのはその誰かではなくて、自分自身。あくまでその行動理由は自分自身にある。

 

だから、自分が重ね合わせられない人間に対しては、なかなか共感できない。もっとも、これは多分全人類がそんなものだと思うが。

そしてそういう人たちに対しては、多分私はすごく冷たい。冷たいというか、おそらく興味がなく、無関心である。だって自分を重ね合わせられないから、自己を投影することもないし、そして傷つくこともない。自分が傷つかないのだから、極端なことを言ってしまえばどうでもいいのだ。

 

そういうことを考えていると、本当に私は他者に興味がないのだなぁと思う。自分自身のことを考える材料となる部分、自分と重なる部分以外に関しては、他者のことをあまり知りたいとも思わないし、知ろうともしない。人間関係がどこか希薄なのはきっとそういうところからなのだろうな。

だって今の私が興味あるのは、自分の心がどういうものなのか、それだけなんだから。それを知る手がかりになること以外はどうでもいいんだから。

すごく自分が冷酷なように思えてくる。そんなはずじゃなかったのにな。暖かい側を演じているけれど、なんだかすごく軽薄にも感じられる。空虚さが残る。

 

今年の初めに、ぼんやりとした目標を立てていた。今年達成したいとかではなく、近い未来に、と保険をかけていた。

それが、「自分のことだけでなく誰かのことを考えられる人間になりたい」だった。

なれるんだろうか。正直全くできる気がしないでいる。

 

自分勝手な、自分が傷つきたくないからという行動理由だとしても、その結果が思いやりや優しさになって誰かの支えや救いになっているのであれば、それは他者を思っているということでいいんじゃないか、とも思う。開き直りのようでもあるし、一方でそれが真実なんじゃないか、とも。偽善だとしても結果が善ならそれは善であり、偽善と言われる謂れはない、というような話に近いかもしれない。どうなんでしょうね。私はまだ開き直れないけれど。

 

(追記):

他者を見るときの眼差しとして、自分と重なる部分だけを見ているような書き方をしたが、思い返してみると少し違ったので書き加えておく。

他者を通じて自分を見ている、というのは変わらない。ただ、当然ながら私と他者は違うところがある。重なるところもある。私はその両方を通じて、自分を見ているような気がする。

重なるところを見ているときは、自分という存在を深く掘り下げるのに利用している。自分を外から見ることはできないけれど、自分と似たところ、重なるところを持つ他者を外から見ることはできるから、そうやって客観視して自分を知ろうとしている。そんな気がしている。

一方で、重ならないところ、交わらないところを見ているときは、自分という存在の輪郭を知るのに利用している。違いがあるということは、それが自分にないことを知るということでもあり、それは私の輪郭となる。アイデンティティは内部的な同一性と、外部との違いによって規定されているように思えている(※これに関しては正直間違っているかもしれない。アイデンティティ研究をちゃんと学んでここは正確にしておきたい)。

 

つまるところ、自分と同じところ、違うところを持つ全ての人間が、私にとっては私を知るための教材である、とも言えるかもしれない。

だからそうやって考えると、私はすごく他者に興味があるのかもしれない。なんだかそんな気がしてきた。

 

(さらに追記):

物差しが自分中心になっている理由の一つとして、これもあるんじゃないかってのが思い浮かんだので書いておく。

子供の頃、相手への思いやりを持ちましょうという文脈で、「自分がされて嫌なことはしない」と教えられることが多かったように思う。あるいは逆に「自分がされて嬉しいことをしてあげよう」とか。小学校でとかだったか。

これはまだ自己と他者が割と未分である子供に向けての言葉であり、そこから発展して他人への思慮を深めていくものだと思う。最初の一歩であり、叩き台のようなものですね。

だから本来であれば、その発想から先に進み、「自分はこう感じるけど相手はどうだろうか」と、自分とは違う感じ方をするかもしれないという可能性を考慮しつつ思慮する方向に変わっていくのだと思う。

私はその最初の段階から進めておらず、自分を物差しに据えることしかできていないんじゃないかと思う。その部分の発達が止まったままなのかもしれない。だから他者の中に自分を見出すことしかできず、自分の中にない他者を見た時に戸惑い立ち尽くすことしかできていないんじゃないか。そんなことをふと思った。

 

(思い出したかのような追記):

今まで生きてきた中で、誰かに憧れるという経験をあまりしてこなかったような気がする。「こうありたい」というような思いは持っても、それが明確な形を持った誰かである、ということはなかなかなかったかもしれない。小さい頃を思い返してみても、それが父親だったことがあるかなぁというくらいで、他の人を思い浮かべられない。

最近になって少しずつ、「この人みたいになりたいな/生きたいな」という具体的な人が思い浮かぶようになった。進歩。多分いいこと。

でもそれはあくまで生き方や考え方、姿勢みたいなものへの憧れであって、「人」への憧れではないかもしれないですね。

そういう憧れの人がいない、というのも私が自分を中心に考えて生きていきたことの証なのだろうか。なんとなくだけど。あんまり他者像が自分の中に居場所を持っていないというか……。他者像を作り上げる前に諦める、そうやって他人にレッテルを貼る行為は慎むべきだと自制する自分がいる。結局他人のことなんてわからないし、決めつけるのはよくない事なので、それはそれで正しい在り方のような気もするけれど、そうやって他人を知ろうとすることから逃げて自分の中に閉じこもろうとするからずっとわからないままなんじゃないか。そんなことを思う。

別にどっちが正しいとかではない。ただ、現状の自分をどこか寂しい存在だと感じているのは事実だから、きっと変わった方が幸せなんだろうな。