思い出の向こう側

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未練

最近、いろいろなところで未練を残しておくことを意識するようになった。

この数年くらい無意識にやってたところではあるんだけど、ちゃんと意識して残しておくようになったのはここ最近だろうか。

 


 

この間の長崎旅行でもそうだった。呼子に行きたかったけど行けず、平戸も全然回りきれず、佐世保は通過してしまったし、長崎でも浦上教会など行きたかった場所を諦めた。島原もちょっとしかいられなかったし、雲仙だったり天草だったりにも行きたかった。山口でも、角島大橋や津和野(島根県だけど)、錦帯橋などにも行きたかった。香川でも行きたかったうどん屋が定休日で諦めたり、父母ヶ浜を諦めたりした。

どこも行こうと思えば行けなかったわけではない。もう少し日数を伸ばせば良かっただけ。だけど無理して行くことはしなかった。

 

それは結局のところ、もう一回行く理由を残しておきたいからだったりする。また来ればいいや、と。私の場合、全て回りきってしまった場所に行くのはあまり気が進まない。既知の物にしか出会わないような気がして、あまり楽しめないような気がしてしまう。実際は既知でも新たな発見があったりもするんだけど、大抵のことは知っちゃってるからそんなにワクワクできなくなってしまう。そう、ワクワク感が必要なんだ。

 

だから敢えて、行きたかったけど行けなかった場所を残しておく。そうすればそこにワクワクが生まれる。旅に出る理由になる。だから未練を残す。いつまでもワクワクするために。

 

 

未練を残す意味をポジティブに捉えるならそういうものになるんだろうけど、そういう生き方をし始めたのはもう少しネガティブな意味合いからだった。

 

数年前、鬱っぽくなっていた私は、生と死をずっと考えていた。生きる意味ってなんだろうとか、いつまで生きてなきゃいけないんだろうかとか、生を選び続ける理由とか。

希死念慮的なものとも言えるかもしれない。そしてそれは今でも(程度はだいぶ軽くなったとはいえ)続いている。最近はあまり考えないようにはしているんだけど、たまにちらついてしまうところがある。

そんな時に、生きる理由は突き詰めるとなさそうだけど、未練が残ってるうちは死を選べないな、まだ死にたくないなといったことをぼんやりと考えていた。

生きる理由は今でもあまり見つかっていない。だけども死ねない理由はある。だから生きていよう、そんな感じで今を生きている。

 

未練があるうちは死ねないということは、未練がなくなったら死を選ぶかもしれないということ。だから未練を残しておかなきゃいけない。死なないために。生きることを選択するために。

 

長崎は私にとって最後の未踏県だったわけだけど、長い間行くのを躊躇っていたのは心のどこかで未踏県がなくなることを怖がっていたからだった。未練が一つ消えてしまったら死が近づくような気がして。だから行っていなかった。

結局とても楽しかったし、そして長崎の中で未練を残しておけたので行って良かったなぁと思っている。

 

そうなのだ。結局私は満たされることはなく、未練がなくなることも多分ない。行っていないところなんていくらでもあるし、全てを回りきる前に寿命が来るだろうし。なんなら海外に目を向ければいくらでも未練の素は転がっている。

 

だけどやっぱり一つ一つ未練が消えてしまうのは怖い。とても怖い。だから一つ未練が消えるたびに一個あるいはもっとたくさんの未練を追加できたらいいな、と思っている。

長崎という漠然とした一つの未練が消えた代わりに、呼子・平戸・佐世保・天草等の具体的な未練が増えた。これはとても幸せなことだ。

 

 

就職では結局京都になったから、瀬戸内で働くという一つの夢は潰えた形になった。だけどこれも幸せなことで、いつか瀬戸内に住むという未練を抱えておける。叶ったら未練が消えてしまうんだからこれで良かったんだ、ということも思った。こうやって考えていれば夢が叶わなくても幸せでいられるし。自分を誤魔化しているようでもあるけれど、生きるため死なないための思考としては多分正しいんだからいいんじゃないかと思っている。

 

行きたい場所以外にも未練はまだたくさんある。ギターもまだ全然弾けるようになってないし、行きたいライブも残っているし、食べたいご飯もある。好きな人と出会って結婚して、みたいなことだって未練だ。心理学をもう少しちゃんと学べば良かったなと思っているのも未練だし、カウンセラーになるのを諦めたのだって未練だ。

そしてその未練はもう取り返しがつかないわけじゃない。今からだって叶うかもしれない(叶わないかもしれないけど)。もしかしたら叶うかもしれないその未来を考えてワクワクするのも、きっと生きる楽しみになってくれる。

 

ネガティブなところから始めた未練残しだったけど、最近はワクワクのために未練を残せるようになってきたかもしれない。前に進めている気がして嬉しい。

 

まだ死ねないからもう少し生きていよう、そんな日々を繰り返しているうちにあと50年、60年、70年と生きていけたらいいな。まだ未知のもので溢れているこの世界で勝手に悟って死なないように、これからも未練を残して生きていこうと思っています。

 

 人生に余白を残しておく、という言い方もできるかもしれない。余白はきっといい味を出すんじゃないかな。知らんけど。

 

(追記)

下書きに書いたままになっている文章がいくつかある。その中に、

 

”生きる理由なんて希薄でいい。空が綺麗だからとかそういうね。

強い理由を持っていたら頑張れるかもしれないけれどそれが失われてしまった時には強く死を意識してしまう、近づいてしまう。

ゆるふわな理由なら歯を食いしばって頑張るなんて出来ないかもしれないけれど死のリスクはない。”

 

というのがあった。書いたのは一年前。

今考えると、希薄な理由だと簡単にあちら側に行ってしまうような気がして危ないなぁと感じる。

空が綺麗だから生きる、というのは空が綺麗だから死ぬ、というのと表裏一体だ。

そういう意味では、未練があるから生きるという今の考え方の方がいいな。未練は多分なくならないから、表裏一体になる可能性は低いし。

多分あの頃よりも私は生きられるようになっている。嬉しいことだな。

 


 

(さらに追記)

以前の自分は未練をすべて断ち切ろうともがいていた。断ち切らないといけない、という強迫めいた思考だったように思う。やっぱり未練があると苦しいから。未練がなくなれば楽になれると思っていた。今だって未練で苦しんでいる部分はある。だけど、未練が私を生に繋ぎ止めておいてくれている。未練があるのは悪いことばかりではない。それに気づけたこと、そして未練をちゃんと見つめられるようになってきたことは進歩だと感じている。これからはこの未練とどう付き合っていくか、どう折り合いをつけていくかが課題だろうか。難しいけど、これを乗り越えられたら遥かに生きやすくなるような気がしている。