思い出の向こう側

好きなものや思い出について書いたりしています

自己肯定感

自己肯定感。高い方がいいと言われるやつ。

 

字義的には自分を肯定していられるか、みたいなこと。自尊感情とかとも近い。めちゃくちゃざっくり言うなら、自分を好きか、だ。

 

ただ、自己肯定感はそこまで単純ではない。

無条件に、例え駄目な自分であったとしても自分を肯定できるか、というのが根幹だろう。

成功した自分を好きなのは割とみんなそうなんじゃないだろうか。

何も持たざる自分であっても、成功していない自分であったとしても、それでもなお自分を好きと言えるか。生きている価値があると言えるか。生きていていいと思えるか。生きていたいと思えるか。自分の存在価値を、付随物が何もない裸の自分にもあると言えるか。

 

 

わたしは自分のことが好きだし、何もしないでいてしまう自分のことも好きだ。駄目な自分が好きだ。だからそういう意味では、自己肯定感は高いと言えるのかもしれない。

 

だけど、自分に自信があるかと言うとそんなことはない。むしろ全く自信がない。

自分の選択に自信を持てないから、いつでも優柔不断で誰かに決めて欲しいとさえ思う。選択が間違っていたんじゃないかといつだって不安になる。後ろを振り返ってしまう。

とても臆病だ。

自分の存在意義について考え込んだりすることも多い。本当に自己肯定感が高ければそんなことを考えないんじゃないか。だって無条件に生きていていいと思えるんだから。生きていていいですか、なんて悩まないんだろうから。

 

わたしがわたしを好きでいる理由の一つに、「わたしだけはわたしを好きでいよう」というのがあることに気づく。

わたしだけは。

他の人が誰もわたしを愛してくれないとしたら、わたしだけがわたしの味方だ。わたしが味方でいるのをやめたら、もはや誰も味方がいなくなってしまう。それならば、「誰に何を言われようとわたしだけはわたしを好きでいる」ことが最低限守らなければいけないラインになる。じゃないと生きていけない。そんなニュアンス。

 

だから、根底には「誰も信用していない」という無意識があるのかもしれない。誰かが味方でいてくれることを、心の底からは信じていない。裏切られることを想定してしまう。裏切ってくるかもしれない相手に寄り掛かって依存する事はできない。

いつだって孤独だ。自分さえも信じられない。

 

本当は、ちゃんと周りには自分のことを好きでいてくれる、信じてくれている、いつでも味方でいてくれるような人たちが沢山いる。それもわかっているつもり。

時には裏切られたような感覚を抱いてしまう時もあるだろう。だけど、大体の時は味方でいてくれる。信じていいんだ。それもまたわかっているつもり。

 

 

なのに、それでも心の一番底には人への不信感が存在してしまう。

裏切られたような経験が多いわけでもない。愛されて生きてきた方だとも思う。

最後の最後にちゃんと守られたという経験は、もしかしたらないのかもしれない。そういう所からなんだろうか。

 

人間は信用できない生き物である、と思ってしまっているのだろう。中島みゆきの「Nobody Is Right」に深く頷く。

”悪い人などいないだなんて あいにくですが頷けません 正しい人こそいないんじゃないか 完璧正しいってどういう人だ” 

いやいい曲だ。

まあこの動画はダイジェストなのでこの歌詞は聴けないんだけど。

 

そしてその思いは、自分自身に対しても抱いている。自分は信用できない生き物だ。自分が怖い。もしかしたらそれを人間全般に広げて捉えているのかもしれない。

他人は自分を映す鏡だ。だから人間全体の問題ではなく、まず自分自身の問題として向き合わなければならない。

 

自分を信用できない、と思う瞬間は日常に沢山ある。

 例えば、橋を歩いて渡っている時に、ふと川に向かってスマホを投げてしまいたいような衝動を持った自分に気づく。実際に投げた事はもちろんないんだけど、投げたらどうなるのかを考えてしまう。投げてしまいそうな自分が確かにいるな、と思ってしまう。紙一重だ。

 

ニュースを見ていても、一歩間違えればわたしもあちら側に行ってしまうのだろうと思う事は多い。加害者になりうる自分をはっきり認識する。その一歩を、運良く今は間違えずにいるだけだ。紙一重で普通に生きていられているだけ。自分をずっと正しくいられる存在だとは思えない。

 

自分を信用できない、というのを治せるか。まあ無理か。そもそも治る(治す)ようなもんでもないし、それが真理だと思っている自分の直感的理解をなかなか曲げられない。この辺りの感覚は信じてしまうのに、自分を信じる事はできないのも不思議な話ではある。

わたしは論理的な人間ではなく、感覚的な人間であるという認識であるのだけれど、それはそんな自己意識からきている。論理を無視する事はできないから、ちゃんと論理を積み上げていく(この辺りが論理的な人間と周りから評されたりする部分なのだろう)事自体はしようとする。だけどその出発点は直感的なものであり、それを論理で肉付けしているに過ぎない。そして最後には直感を大事にしている。そういう人間だ。

 そういう意味で、その直感的認識を覆すには論理ではなく、もっと感覚的なものが必要だ。感覚的に、他人を、人間を、そして自分自身を信じられる存在と捉えることができるだろうか。今のところまあ無理だな、という結論になってしまう。

 


 

思うままに書き連ねていたら、結局自己肯定感のかけらもないような文章になってしまった。でもそんな自分も好きだ。少なくとも嫌いではない。自分の今の思考も文章も好きだ。ネガティブかもしれないけれど、その温度感が好きだ。

 

好き。それは論理ではなく直感。直感は信じられる。論理で疑ったりもするけれど、それでもその直感が揺らぐ事はない。

ああそうか。好き、から始まるなら、それは揺るがないんだ。自分のことが好きなんだから、それならもうそれでいいじゃないか。論理で揺さぶったところで、結局自分が好き、という結論に回帰するんだから。

というわけでちょっと悩みながら書いていたけれど、最終的には書くことで救われた、という話でした。

 

 


 「夢を失うよりも悲しいことは 自分を信じてあげられないこと」(Jupiter/平原綾香)

精神的にしんどかった時に、この歌詞がとても刺さっていたのを思い出す。あの頃は本当に自分を信じてあげられなかった。キツかった。

 

今だって自分を信じてあげられないことには変わりはない。だけど、自分のことが好きだ、という感覚はあの頃と比べてちゃんと強くなっている。そこは信じていられる。

なら大丈夫。

 

 

あとこれはすごく単純に、他人から褒められたりすればこんなことをあまり考えなくても良いんだろうな、なんてことも思った。自分のことはあまり信用できないけれど、他人が褒めてくれるならその自分のことは信じてもいいかなって思える。あの人が言ってくれるなら、みたいに。褒められる事はもうこの歳になると多くはない。褒められが足りてないが故の自信のなさはあるのかもしれない。そんなことを少し思った。もっと褒められたいよね。

 

だからこそ、逆の立場に立った時、ちゃんと褒められる、あるいは愛を伝えられる人間でありたいな、ということを思う。それが大切な誰かにとっての生きる力になるかもしれない。自信になるかもしれない。だったらどんどん伝えていかなければならない。

 

わたしには誰かに思いを伝える力は足りていない。今はまだ自分のためにしか綴れないでいる。誰かのために綴れる力をつけられるといいな。まだ先の話。

 


 

※追記:

最後の方で「ちゃんと論理を積み上げていく事自体はしようとする。その出発点は直感的なものであり、それを論理で肉付けしているに過ぎない。」と書いていた。その理由を「論理を無視する事はできないから」としていたけれど、それだけでは不十分なんじゃないか、と考えていくうちに思った。

 

 

自分を信じきれないわたしは直感も無条件に信じることが出来ないから、論理という後ろ盾が欲しくて仕方ないのかもしれない。

自分や自分のその感覚を正しいと言ってくれる何かを欲している。それは理論武装をするような論理的な物もだし、他人の言葉でもいい。他者からの承認がほしいのも結局はそこなんだろうなと思った。

 

もちろん直感を信じていたい。だけど信じきれる物でもなくて、直感を覆してしまう何かを探してしまう。だいたいは見つからない。覆す何かがないのなら、直感を信じておけばいい。なのに。それでも信じきれなくて、探し続けてしまう。

覆す何かを見つけたところで幸せにはなれないだろうに。傷つくだけだろうに。それでも。かさぶたをつい剥がしてしまうような感覚にも似ている。

 

ただわたしを正しいと言ってくれ。正しい道を歩いていると言ってくれ。違ったら違うと言ってくれ。それだけで楽になれる。何も言われないことは怖い。

その言葉さえももしかしたら疑ってしまうかもしれない。そんな自分がいることもわかっている。だけどそれではあまりにも不幸だ。自分のことは好きだけれど、そうなってしまう自分ではいたくないから、なんとか抜け出したいなと思っている。

もちろん他人の言葉を信じきるのも違うと思っているんだけどね。違った時に傷つくのは言ってくれた他人ではなく、自分自身なのだから。

 

人をもう少し信じてみるところから始めてみようかな。

全部は信じなくてもいい。8割とかでいいって誰かが言っていた気がする。2割疑う余地を残している方が、もし違った時に裏切られたと思わずに済むって。その辺のバランスは難しいけれど、とりあえずやってみよう。

褒められた時には素直に受け取ってみよう。その方が多分幸せだ。

その先で自分をもっと信じてあげられるようになったらいいな。