思い出の向こう側

好きなものや思い出について書いたりしています

雨の休日

雨の匂いがする土曜だった。

雨の匂いは好きじゃない。雨の匂いのする小雨よりも、匂いのしない本降りの方がマシだななんて思う。多分実際に本降りにあったらそんなことは思えないんだろうけど。

 

本屋やCDショップに行き、何も買わずに店を出た。勢いのある日なら多分何かしら買っていただろうけど、今日はそういう気分ではなかったらしい。また雨の中を歩く。

 

CDショップでは坂本龍一特集が展開されていた。CDやら著書、伝記的なものなどが並んでいたと思う。

一人の人生を語るのに、これっぽっちのものにまとめられてしまうことをふと思う。一冊の本にまとめられてしまうほど、人間の人生は空虚なものなのだろうか。坂本龍一を私はあまりよく知らない。YMOだとか、戦場のメリークリスマスだとか、教授と呼ばれているとか、それくらい。でも、濃い人生を歩んできたんだろうなということくらいは想像できる。それでも後から誰かが人生を振り返る時には、一冊の本に凝縮されてしまう。71歳の生涯で、日数に直せば25000日以上。それがたった数百ページ、多くても千ページ程度に。もちろんプライベートなこととかが人生には多く、全てを公にできるわけではないから単純に計算できるわけではないだろうけど、削ぎ落とされてしまった時間の膨大さだけはわかる。なんだか虚しさを覚えながらまた歩き出す。

 

本屋に行ってもそれは同じで、そこにはたくさんの人の人生が並んでいた。同じようにその人生は一冊にまとめられてしまっていて、文庫本や単行本のあのサイズに一人の人間の時間が凝縮されてしまっていることがなんだか怖くなる。

 

今日私が生きているこの1日もきっと振り返る時には消えてしまう1日で、あの雨の匂いも、少しひんやりとした空気も、濡れてしまった鞄の湿り気も、そんな中で考えていたあれこれも、確かに存在していたはずなのに消えてしまう。そういうものだと言えばそれまでで、全てを残すことなどできないことも知っているけれど、それでも失ってしまうもののことを思う。でも、そもそも世界の全てを受け取れているわけでは決してなくて、受け取った段階で削ぎ落とされているものがたくさんあったはずだ。当たり前のように情報の取捨選択をしていく中で、思い出も取捨選択されて消えていく。そういうものなんだろう。

 

なんでもないようなこの1日を、私は愛おしく思う。何かがあったわけでもなく、なんなら何もできなかったような1日だけど、それでも私はこの1日が確かに好きで、人生とはそういう日々の積み重ねなんだと思う。

だからこそ私は日記のようにしてこのブログに書き残す。仮に誰かが私のことを書き記すなら絶対に残らない1日(そもそも誰にも会っていないし)を、私が生きた証として。毎日書くことは多分できないし、情報が多すぎて逆に埋もれてしまう可能性が高くなる。書きたくなるような気分の時だけでも、こうやって日常のなんでもないことを残しておきたいな、と思っているのは、人生の残り時間を少しずつ意識してしまうからなのだろうか。

 

明日こそ勉強を頑張ると決めた。寝ます。