思い出の向こう側

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居場所

居場所を私はずっと求めている。

 

居場所には捉え方が二つあると思っていて、一つは自分がここにいていいという場所。もう一つは、自分がここにいて欲しいと求められている場所。

 

ここにいていい、というある種消極的な、受容的な感覚は、その場所との結びつきはそんなに強くない一方で楽だし、何より離れてもいいということでもある。来るもの拒まず去るもの追わずという言葉で表されるような。加えて、自分がどう変わろうとまた受け入れてくれる場所でもある。

縛られることもなく、苦しいこともなく(苦しければ一旦離れればいいだけのこと)、いつでも戻って来られる場所。離れている時でも、いざという時の避難場所があるという安心感は精神を安定させる。

ただ、積極的なものではないだけに、そこに居てもここは本当に居場所なんだろうか、という不安も抱きやすいような気がしている。緩い結びつきだけど絶対に大丈夫だという、そういった「ここにいていい」は居場所の理想の形の一つなんだろうけれど、それはなかなか実現されるものでもないし、信じきることもまた難しい。「いつ帰ってきてもいいよ、拒まないよ」という言葉を私は一度疑ってしまう。

 

一方、ここにいて欲しい、は強い結びつきであると同時に離れがたいもの。求められているということは積極的な愛のようなものだから居場所としての強さがあり、絶対的に大丈夫だという安心感、安定感がある。けれどその結びつきの強さゆえに縛られることも多く、その場所から逃れることも簡単ではない。離れることには大きな痛みが伴う。

それに、求められているが故の居場所は、求められていることが出来なくなったら消えてしまう可能性があるという危うさを持つ。何を求められているかにもよるだろうけれど、永続的ではない。だからこそその居場所を維持するための努力が必要であり、その努力の動機はその居場所を失うことへの怯えだったりする。

 

どちらがいいとかでは本来なく、どちらも人間には必要なんだと思う。いつでも戻れる場所、そして強く抱きしめてくれる場所。それをちゃんといくつか持てる人間はやっぱり安定するんだと思う。

 

 

私はずっと、ここにいていい、という居場所を求めていたような気がする。だからか周りの人間との関係性はどこか希薄で、一歩踏み込まず、緩い関係性をずっと保ってきていた。そしてカウンセラーという仕事はまさに「ここにいていい」という居場所を提供するものでもあると思っていて、だから私はそこを理想とするのだけれど、でもなんだか寂しい。

多分今の私は「ここにいて欲しい」を求めているのだと思う。「私」を欲してくれている場所、あるいは誰かを。他の誰でもない、ただ「私」が「私」であるからそこにいて欲しいと強く思ってくれることを。

 

この1週間ほど、ものすごく気分がブルーになってしまっていた。多分、会社を辞めるということ、つまり居場所を一つ失うということがそれだけ自分にとって大きいことなんだと思う。会社は「ここにいて欲しい」と私を求めてくれている場所だった。本心ではどうかわからないが、できれば辞めないでほしいという言葉をかけてくれる人たちがいる。その上で、もう引き止められないことを受け入れ応援してくれる人たちがいる。頼ってくれる人たちがいる。信じてくれる人たちがいる。寂しいといってくれる人たちがいる。そういった人たち、言葉たちが、私にとっての居場所になっていた。

だからそういった全てを捨てて、ひとりぼっちになってしまうことが、今とても寂しく、そして怖い。会社で一緒に仕事をするという、そういう関係性の上で成り立っていた居場所だったから、仕事として何かを提供できなくなってしまった辞めた後も続く居場所ではないと思ってしまう。

もちろん、人としての関係性は今後も続くかもしれない。けれど、それは「ここにいていい」というくらいの緩く薄い関係性への変化を意味するような気がしている。強い居場所を私は一つ失う。自分が選んだことなのに、勝手に辞める癖に、それでもなお痛いのはもうしょうがないことなんだろうな。この痛みはちゃんと受け止めて乗り越えていきたい。

そして次の居場所を作れるように、ちゃんと頑張っていかなきゃ。